SDGsに関連してイギリスはグラスゴーで開かれたCOP26が閉幕した。
日本は相変わらず「化石賞」を拝領し、さらに「石炭による火力発電を削減しろ」と厳しく命じられたのだった。
日本も反論したが、アンモニア燃焼だの、水素の利用だの「机上の空論」を、ぼそぼそ述べただけで相手にされなかったようだ。
「日本政府は本気で考えていない」と各国から指弾されているのである。

SDGsの目標にしろ、COP26策定の目標にしろ、コペルニクス的転回の社会変革がないとできない相談なのだ。
そして地球環境を人類が存続するために好適に維持するには、脱炭素社会のような「なまぬるい」目標を達成しても時すでに遅しなのだ。
おそらく平均気温上昇を1.5℃以内にすること自体、無理だろう。
二酸化炭素の排出権をカネで買ったり売ったりする「態度」がまず、上の目標を達成できない元凶だ。

もし本気で気温上昇を抑えたいのなら、極力電気を使わない生活にシフトせねばならない。
一般の日本人は四十~五十年ほど前の生活に戻すことを考えるべきだろう。
そんなに難しいことではない。
おおかたの家電品は長足の技術進歩を遂げて、消費電力が昔と比べ物にならないくらい低くなっている。
パソコンやテレビ、DVDなどを使い倒してもそんなに環境に悪くはない。
照明もLEDになって寿命も消費電力も抑えられた。
家庭で抑える電力は主に動力系である。冷暖房と乾燥機、洗濯機、冷蔵庫、電気自動車の使い方を考えなおさねばならないのだ。
生まれた時から空調の整った環境で育った人たちがほとんどになった日本では、夏冬の冷暖房が欠かせないし、すでに住環境が密閉系で空調なしには生活しえないのである。
移動手段のクルマはガソリンからハイブリッドそして電気自動車になっていくだろうが、使用頻度が高ければ環境負荷はほとんど変わらないといわれる。製造コストとリサイクルコストがガソリン車を上回ると考えられているのだ。
もちろん使う電気の質(再生可能かどうか)も問われるのは言うまでもない。

ここまで考えてふと気づく。
これはやっぱり不可能ではないかと。
意識の高い人たちは「不可能を口にするな。今やらねば」と叫ぶが、社会は一様ではないし、一枚板ではない。
格差もあるし、できることは個々人において異なりもし、お話にならないほど貧しい人だっている。
子育て世代で、子供に我慢を強いるのは忍びないし、お年寄り世代では、気持ちは辛抱強いが体が寒暖の差に耐えられないし、車がないと生活できないという声も聞こえてきそうだ。

私は思う。SDGsやCOP26のやっていることは「竹槍でB-29と闘う」ようなことではないだろうかと。
敗色が濃くなっていったかつての日本帝国の落日を見るようで、無力な気持ちを抑えられない。
「それでもやらねば、子々孫々へのツケが溜まって」大変なことになると煽(あお)ってくる。
石油が高騰している。
「それなら使わない生活を」と言うが、できるか?
生活はまあいい。石油化学工業に携わる人々の仕事が奪われ、年末のボーナスにも響くかもしれない。
電気自動車は石油高騰を好機とみるか?そんな簡単なものではあるまい。
なにも石油が枯渇したわけではなく、一時的にコロナが収束し、世の中が動き出したことによる石油需要の逼迫(ひっぱく)であるから、OPEC諸国はここぞとばかりに高値を好感し維持して儲けたいのだ。

木を植えて「グリーン事業」だとかぬかして、イメージを高めている企業を見ると虚しくなる。
植えた何倍もの森林が人為的に破壊され、あげくに旱魃や山火事でグリーンは灰燼に帰すのである。

何事も「蟷螂の斧」に見える。私には。
「だから何もしないのか?」
「そうだ」としか言えない。
SDGsのバッジを外した。