虚数単位「i」は「i²=-1」と定義されるものだ。
「二乗して‐1になる数をiとし、これを虚数単位という」

二次方程式を解くと、根号の中が負の数になることに出くわす。
昔の人もそうだった。
そしてそういった「数」は、忌み嫌われた。存在を否定した人もいた。
ラファエル・ボンベリという数学者が1572年に書物で触れた(発見した)ことになっているが、とにかく、ルネ・デカルトでさえ「想像のシロモノ」と本気で取り上げなかった「虚数」である。
つまり当時、根号の中が負の数になった場合、「解なし」と表現するのが当たり前だった。
これはデカルト座標において、その二次方程式が「虚数根」を持つ場合、そのグラフはx軸と交わらないことを示しているから、あながち間違いではない。
「実数根を持たない」ことが今では「虚数根を持つ」と表現されるところを「解なし」としたのである。
実軸に解を持たない世界ではそれでよかった。
レオンハルト・オイラーが出現するまでは…
もっともイタリアのカルダノは「虚数根」を理解していたから三次方程式の解の公式(実はタルタリアが導いていたのを詐術を使って横取りしたらしい)を書物に著し得たのだろう。

ライプニッツは「虚数」を神聖なものと捉えるも、当時のキリスト教の司祭や司教らには理解できず、地動説ほど彼らを刺激しなかったから、虚数を認めて迫害されるようなこともなかったらしい。

虚数単位は大小関係のない数字である。たとえば「3iと5iではどっちが大きいか」とは問えない。
a,bを実数としたときに、a±biで表す数を複素数ということにしている。
aを実部、biを虚部と呼ぶ。
この表現はオイラーの考えた「複素数平面」で具現化される。
「複素数平面」とは横軸に実部、それに直交する縦軸に虚部を表す座標であるが、平面上の点は実部と虚部の和(差)で表されることになる。
それらの軸の交点を「0」とするのはデカルト座標と同じである(つまり0±0i)。
複素数においても大小が問えないかというと、実部の大小が問えるので大小関係は表現できる。
複素数の大小を問うことにいかほどの意味があるのか私は知らない。
それよりも、複素数平面と三角関数から、あの美しいオイラーの公式「e^iπ=-1」が得られることのほうが意味がある(オイラーの公式の冪には±がついてもよい。なおeは自然対数の底、πは円周率である)。
参考文献:「わかる代数学」秋山武太郎著、日新出版
     「虚数iの不思議」堀場芳数著、講談社ブルーバックス