あたしは、朝から「重合実験」をしていた。
高分子化合物を作るには「重合反応」を起こさねばならない。
小さい分子が、いくつも鎖のようにつながって何十万、何百万の高分子化合物を形成する。
タイヤ一個が一つの分子だってこともありうるのだ。
(ゴムは高分子化合物です)

あたしの勤めている会社は、工業用の接着剤を作っている。
大学の先生の推薦でここに入社できた。
もう三年になる。

丸いフラスコを十ほど並べて、攪拌しながら加熱していると重合が起こって、中の成分がしだいに粘性を帯びて、泡立ってくる。
十もあるのは、分子の種類を少しずつ変えているからだ。
この中から新しい接着剤が生まれると思いながら毎日、実験を繰り返していた。
そうは、簡単ではないのだけれど。

同じ研究室の同期の金子君が同じように、フラスコを並べて実験していた。
ふと、叔父の言葉が頭をよぎった。
「お前の会社の中に、工作員が潜入してるはずや」
「金とか朴とか李とか苗字に入っているやつ。それから鈴木とか山本とか田中とかありふれた名前のヤツを注意して見とき」
たしか、そういう内容のことを言っていた。

金子君は大人しい子で、立命館大学出身だった。
この会社には立命館出身者がたくさんいた。
あたしの学校などは少数派だった。

あやしいと思えば、誰だってあやしく見える。
金子君は得体が知れなかった。
コンパにもあまり出てこないし、寮にも入らず、一人暮らしをしているという。
彼女がいるといううわさもない。
フルで金子晋平と言った。
「金晋平か・・・」ありうるな。
あたしは、思った。
顔も、どっちかというと頬骨の目立つ、平たいチョーセン顔だった。
あたしは、朝鮮中央放送からベリカードや冊子をもらっていて、その国の様子もだいたい知っていた。
金子君みたいな顔の、若い兵士が並んでいる写真もあった。

フラスコの中の攪拌羽根の回転をみながら、そんな勝手な想像をしていた。
「あたしの身辺で、不可解なことが起こっていることは事実なんよね」
「あいつが、あたしのKBS(韓国の国営放送)からのハングルテキストを破って捨てたんちゃうかな」
疑い出したらキリがないけれど、そう思ってしまう。

「横山さん」
金子君があたしを呼んだ。
「え?何?」
つっけんどんに答えるあたし。
「ウォーターバス(湯煎器)の温度、上げてもいい?」
「ええよ。金子君、バスの上に乗ってるフラスコ、洗ってよ。たまってじゃまやし」
「あ、なかなか取れへんねんなぁ。カチカチに固まってて」
湯煎器は失敗したフラスコに湯が満たされて、アルカリを放り込まれてしばらく置かれる。
中の高分子を軟らかくして水溶性にしてから捨てるのだ。

昼になった。
寮の食堂に昼食を取りに行く。
寮母さんがお弁当を作ってくれるのだ。
それを取ってきて、実験室で食べることになる。
研究棟のはす向かいが寮になっている。

金子君は会社に入ってる業者の弁当を食べている。
彼は、いつも本を読みながら食べていた。
本のカバーは裏返され、何の本なのかわからない。
工場から電話がかかってきて、金子君が呼び出された。
彼の作った製品を、今日、大きい釜で試作しているのだった。
本を机の上に伏せたまま、彼は出て行った。
「なんの本を読んでるんやろ」
あたしは、そっと本を見た。
ハングルだった。
とっさに、本を元に戻した。
「やっぱりな」
思いあたるふしがあった。
「あたしを、監視するために同じ研究室に配属になったということは、あの人もグルや」
研究部長の山本栄三が浮かび上がった。
「ヤマモト・・・これもあやしいと叔父が言うてた」

後で分かったことだが、山本栄三は本名を崔栄三(チェ・ヨンサム)と言った。
北の出身で、海外出張の名目で何度か向こうに帰っているらしいこともわかった。
「社長はどう思っているんやろ」
驚きの事実は「東亜日報」で明らかになった。
当社社長の柳本昆一は北朝鮮系企業に染色の薬剤と称して、軍事に転用できる化学品六項目を不正に引き渡したとあった。

「有機リン系の化合物と過酸化水素か・・・」
あたしは、事務所で会社が取っている韓国系の「東亜日報」を読んでいた。
こんな新聞を取っている会社こそあやしむべきだったのだ。
もちろん、北系の「朝鮮日報」も取っている。
中国の繊維業界とつながりの深い当社は、朝鮮半島とも浅からぬ関係になっていた。
なかでも、金日成が危篤となった北朝鮮とは急速に関係が深くなった。

社会党の議員が関与しているのも広くうわさされていた。

ぽんと肩をたたかれた。
「なおぼん、どうしたんや?そんなもん見て」
「あ、南さん」
二年先輩の南隆(みなみたかし)は寮でもいっしょにお酒を飲む仲だった。
「ま、ちょっと」
「この記事やな。社長も迷惑な話やて怒ってたわ」
「こんなん、書かれて、ほんまのことですか」
「半分おうてるし、半分でっちあげや」
要領を得なかったけれど、灰色なのはわかった。
「南さん、あの、金子君のことやけど」
小さい声で言った。
「金子がどうした?」
「お昼にハングルの本、読んでたんやけど」
「はぁ。なるほど・・・あいつもそうか」
「やっぱり?」
「こんくらいの本で、表紙を裏返しとったやろ?」
「そうそう」
「ちょっと、外、出よか」
あたしは南先輩に促されて表に出た。
「部長と金子はチョーセン人や」
「やっぱし」
「夕方なったら、あの二人、こそこそやっとる。社長もグルやで」
「ええっ」
「あの新聞記事は半分ホンマのことや」
あたしは目の前がまっくらになりそうだった。
叔父の言ったことがほぼ当たってしまっている。