中華思想に染まった中国人の末裔に日本が乗っ取られて十数年が経過した。
当時の日本政府与党が在日外国人に選挙権を与えたことがそもそもの始まりだった。

今の日本政府は、内閣の半数が中華人と韓人に占められているありさまだった。

あたしと中村君はポンコツのXトレイルで朽ちかけた高速道路をかっ飛ばしていた。
中華人らの社会資本制度はずさんなもので、こういった高速道路も無料で利用できる反面、整備が行き届かず、とんでもないところに穴が開いていたりする。

そこかしこで、日本人と在日外国人のいざこざや小競り合いがあった。
日本人の既得権とそれを良しとしない在日外国人。

日本の秩序の良さが彼らには「押し付け」と受け取られ、ゴミの出し方如何でも反対に日本人が吊し上げられることもしばしばあった。

対馬(つしま)がもはや韓国人の島となり、厳原(いずはら)の首長は在日四世である。
島は、ハングルで埋めつくされ、キムチの匂いが漂い、もはや昔の面影はない。

「許時運(きょじうん)総裁をまず殺る」
あたしはつぶやいた。今の在日党総裁である。

運転席の中村君も、うなづく。

もはや誰かの犠牲でクーデターを起こすしかない。
そういう動きがふつふつと湧いて、今、大きなうねりになってきている。
アメリカは静観しているが、パレスチナ紛争でイスラエルに肩入れしたように、あたしたちに加勢してくれるはずだ。

今や、新旧右翼団体、保守派連合、新左翼などが混然一体となって、同じ目標を追っているのだ。
もう一度、日本人の日本を取り戻そうと。

中華人らの政権は、日本を御(ぎょ)し得ていない。
そこがつけ入る隙(すき)なのだ。
本国から逃げてきた富裕層からなる中華人は、政治にはまったくの素人だった。
不動産投資で稼いだ金脈しか力がない。

依然として日本は独立国家であり、中国の属国ではないのである。

日本の刑法はいまだ健在であるから、クーデターの罪は極刑に値する。
それをあたしたちがやろうとしているのだ。

インターネットやツイッター、フェイスブックは極力使わずにケータイとアマチュア無線のみを使った連絡で仲間を募った。
独特の符牒やCW(モールス符号)によるローテクなメソッドが意外と抜け穴なのがこれでわかった。

「何を考えているの?」
あたしは、黙りこくって運転している中村君に訊いた。
「ああ、これからやるんだなって・・・」
「怖いの」
「ううん。でも、どうかなぁ。やっぱり人を殺すって怖いやろなぁ」
「そやね」

あたしたちは、指定暴力団「琴平会(ことひらかい。通称「こんぴら会」)」の幹部、蒲生譲二(がもうじょうじ)から拳銃の扱い方を習った。
彼は、土台人(トデイン)との交流もあった日本人だが、右翼団体に属し、今般の状況を好ましく思っていなかった。
あたしは蒲生の愛人、金明恵(きむ・みょんへ)と親しくしていた関係から、つながりを持った次第である。
中村君とは、職場の後輩だったけれど、馬が合って協働することになった。


「北の偉い人。あれなんて言ったっけ」
「キム・ジョンウンを暗殺した、ジョンナム(正男)やろ」
あたしはそう答えた。
「あいつって、日本にたびたび来てたな」
「ああ、豪遊して帰っていきよった。そんとき相手した女が、ミョンヘやんか」
「へえ、あの子がねぇ」

北朝鮮は主席暗殺事件以降、脱北が横行し、日本へも大量に難民が流入してきた経緯がある。


そこで目が覚めた。
「夢やったんか」
終日の、激闘で寝てしまったのだった。
ほんの半時間ほどだったと思うが。
「中村はどうしたやろ」
はぐれてしまったのだ。一人で、許総裁を追っているのに違いない。

最初の殺人がまだ脳裏に焼き付いている。
許(きょ)のSPの一人と接近戦となって、馬乗りになってきた男をトカレフで至近から撃った。
脳漿がさく裂し、頭の半分が吹っ飛んだ。
吐き気が襲ってきた。

「トカレフ弾は体から出るときに大きく肉を抉る」と蒲生から教えてもらったことを思い出した。

「私は人を殺した・・・」
彼にも家族があったはずだ。
それを一瞬で奪ったのだ。

一人殺すと、後はもう麻痺してしまう。
血しぶきって、綺麗やなぁと感心してしまうまでになった。

後ろからも撃った。
卑怯は承知で。
殺らな、殺られるから。
日本では警察もSPも銃器に慣れていない。
本気で撃ってくると思っていないから、一歩出遅れる。
そこであたしは躊躇なくトリガーを引く。
蒲生が口を酸っぱくして教えてくれたことはそれだけだった。

「もう、永山(ながやま)基準は完全にクリアしたな・・・」
あたしは、死刑を覚悟しなければならなかった。
「まだ、フィクサー(黒幕)を殺ってない。はやく殺らんと」
節々が痛い体を起こしてあたしは、一歩踏み出した。

「しかし、静かやな。この騒ぎで警察も来そうなもんやけどなぁ」
白昼からの撃ち合いにもかかわらず、巣鴨の在日党本部は森閑としていた。