吾輩は、ひねもす、庭の雀等が相撲をとるのを見たり、仰向けになって天道様のご機嫌をうかがってゐた。
そこへ、鈴(りん)が鳴り、誰かが來たやうだ。
大晦日の今頃、ぶらぶらしてをるのは迷亭ぐらいのもの。いやさうに違ひなゐ。
「やぁ、君も暇を持て余しているやうだね」
そら見ろ、ずうずうしく主人の部屋に入ってくるなり、金縁眼鏡の迷亭氏が多少、侮蔑を含んで言ふ。
「君ほどじゃなゐよ。学生の答案の採点で、そこそこ忙しひのだ」と、平然と先生は答へた。
迷亭は、きょろきょろと見回して、「おう」と、吾輩を認めて、綿の出た座布團に尻を下ろす。
「君は、横山尚子君を知ってゐるかい」
「ああ、三丁目の女学士だらう?子爵令嬢だとか、妻(さい)が言ふとった」
「さうさう、水島君が例の「鼻」の御息女とは沙汰止みになって、次は横山女史と昵懇なんだ」
「寒月がかい」
いささか、驚いた表情で、主人は答案の上に筆を置いた。
吾輩が主人の膝の上に乘っかると、ぽんぽんと主人が、吾輩の頭を叩く。
これは、かなわんと、膝を辞して、迷亭氏の膝に鞍替えする。
迷亭先生、吾輩の顔を覗きこんで、べろべろばあと赤子をあやすやうに相好を崩してゐる。
「横山とやらは、ぜんたい、どんな女人なんだ」
「先生は、ご存知ない。こりゃ、おどろいた」
「そんなに、有名なのかい」
「有名も何も、ガラス球(だま)を磨かせたら日ノ本一と、うわさの高い、女先生ださうだ」
「へえ。寒月君も相当なものだと聞いてゐたがね」
「あんなもの、足元にも及びませんや。寒月先生が十年磨いても、球になるどころか、微塵になっちまいまさあ」
「ほう、そんなもんかね」
主人は、要領を得ない表情で、迷亭の冗談を真に受けている。

吾輩は、欠伸(あくび)を一つして、迷亭の膝を下りて、そのまま縁側に出た。
ガラス戸を開けてくれと、かりかりと爪を立ててやる。
主人が「しやうのなゐやつだ」といふ風な顔でやってきて、少しだけ戸を引ゐてくれる。
吾輩は、寒ひが清々しき年の瀬の陽光の下に躍り出た。
「横山子爵とは、甘木先生の裏の邸宅の住人だったはず。ちと、その御息女の御尊顔を拝しにいかう」
吾輩は、生け垣をくぐり、三味線のお師匠さんの庭を横切らうとした。
「あら、先生」
三毛子の鈴を転がすやうな聲が聞こえたような気がした。
思えば可愛そうな娘だった。
風邪をこじらせて、そのまま亡くなってしまった。
吾輩は、しかし感傷に浸っている暇はなかった。
寒月君の新たなる想ひ人は如何なる女人か。
興味の盡きぬ思ひで、車屋の前を恐る恐る通り、黑に見つからぬやうに祈りながら抜けた。
ほどなく、甘木醫院の前に出る。
苦沙弥先生が藪だと言ひながらも、胃藥のタカヂアスターゼを甘木醫師からせしめているのは先刻承知のこと。
オタンチン・パレオロガスに似るは、主人の細君より、むしろ御本人ではなからうかと、思ふ次第である。

この裏が、横山邸で、堅固な石塀が屋敷を取り巻き、猫族でもさうは簡單には侵入できなゐ樣子だった。
ふと、勝手口の鐡扉が半ば開いてをる。
不注意なる使用人が、閉め忘れたものと思はるる。
吾輩は、この機會を逃してはなるまひと頭を隙間にねじ込んだ。
頭が通れば、胴が通るのは猫の道理。

入ってみれば、どこの庭も同じで、植木があり、納戸があり、子爵といへどもさして変わらぬ。
鼻子の息女は、鼻持ちならぬ我儘であったが、横山某はいかなる姫君か。
家の中から、女の声がする。
声が近づき、玄関から女が一人出てきた。
まるで男のやうな格好をし、庇髪(ひさしがみ)こそ結ふてはゐたが、下は股引に脚絆といふ出で立ち。
「あら、ねこちゃん。あんた、どっから来たん」
上方の言葉と思ほゆ、優しげな語りかけで吾輩を抱き上げる。
にゃあ、にゃあと精一杯の挨拶で、吾輩の親愛なる気持ちを伝へた。
「なをこや、出かけるのですか」
奥から、呼ばわる声は、この令嬢の母か、乳母といふ年格好の女であった。
「はい、お母様、今晩は水島樣と白木屋に行って、萬養軒でお食事して帰ります」
「その格好はおかしいわ。なをこ、その猫は」とご母堂。
なるほど、吾輩も、さふ思ふ。
「この子、迷い込んで來たんよ」
吾輩を撫でながら、尚子嬢は答へる。
吾輩はごろごろと喉を鳴らしてやる。
「汚い猫ね」と、ご母堂。あんまりである。

なおぼんの妄想でした。
おやすみ。