「ただいまぁっ!」
あたしは、いつもより元気よく玄関の引き戸を開けて声を上げた。
お母さんがハンダ付けの内職をしているので、ハンダのヤニの匂いが家の匂いになってしまっている。
「ダライ・ラマがどうしたって?」
「はぁ?」
あたしは要領を得ない顔をして、母を見た。
ハンダの煙が上がって、銀色の玉が転がる。
「ただいまって言うたんやけど…」
「なんや、チベットの坊さんがどうかしたんかと思ったわ」
わけのわからないことを言う母さんだったけど、妙に面白かった。

門真(かどま)は松下(現パナソニック)のお膝元で、当時はテレビの増産に次ぐ増産だったから、どこの家のお母さんもハンダ付けの内職をやっていた。
だから、母さんは父さんよりもハンダ付けが上手だ。
昭和四十五年くらいのこと。
大阪万博があった年だった。


父さんは、おしりから煙が出るほどタバコを吸う人で、ハイライトをいつもカートンで買っていた。
母さんはタバコなんか吸わない人だったけれど、一度だけ、台所のテーブルに肘をついて、父さんのハイライトをくゆらしているのを見たことがある。
まぼろしか、夢だったのだろうか?
いや、幼いあたしの脳裏に焼き付いているほどしっかりと覚えているのだ。
母にも、人に言えない悩みがあったのだろう。
五十を超えた今のあたしには、それはよくわかるし、いい思い出となって蘇るのだった。

あたしは、今はほとんどタバコを吸わない。
大学の頃は、先輩の真似をしてLARKを吸っていた。
吸っているというより、ふかしているという、背伸びした、かっこつけの吸い方だった。
けれども、麻雀をやるようになって、タバコが手放せなくなる。
いわゆる「テンパイタバコ」だ。
テンパると、火を点ける。
いい手だと、タバコに手が伸びる。

そんな私が、きっぱりタバコと縁を切ったのが、化学会社に勤めてからだった。
「火気厳禁」の職場では仕方がなかった。
いちいち遠い喫煙所で吸うのもめんどくさかった。
それほど禁断症状にさいなまれなかったのは、やはり「かっこつけ」で吸っていたからかもしれない。

タバコの害についてあたしはほとんど興味が無い。
体が大事なら、吸わなきゃいいわけで、吸いたかったら体のことなんか考えちゃだめだ。
それよりも火災が怖い。
あたしがタバコを吸わなくなったのは、寝タバコで火災を起こして何もかもを失うのが嫌だからだ。
間接喫煙だの、肺がんだの、あたしにとっては瑣末な問題だった。
タバコ臭い男との接吻や、車に乗ることは嫌ではない。
それは、小さい頃から父のチェーン・スモーキングに付き合わされていたからに他ならない。
肩車されて、父の煙の雲の中に身を置くのは、煙いけれど、安心感があった。

しかし、タバコは高くなった。
一番安い「わかば」や「エコー」に、たまに口が寂しいときにお世話になる。
コンビニでこの銘柄を買うのが、ちょっと恥ずかしい。
祖母は「いこい」という茶色いケースのたばこを「たばこ盆」にいつも入れて、一服していた。
彼女は「キセル」も使っていたと記憶している。
「羅宇屋(らおや)」の話を、聞いたのも祖母からだった。
祖母は、キセルの先でたばこ盆の柄を引っ掛けて、自分のところに器用に寄せてくるのだ。

今の女が下品にタバコを吸っているのとは、ちょっと違う「一服」だった。
田んぼの畦などで、野良仕事の合間におばさんたちが「一服」点けてる光景はよく見られたものだ。
なんだか、見ているこっちも清々(すがすが)しくなるような景色だった。

タバコの吸い方が上手なのだ。