潮干狩りの季節ですが、あたしがヒトデという動物に出会ったのはまさに津の御殿場浜でした。
あすこは、潮干狩りで有名で、今でもそうなのかどうか知りませんが、あたしが小学生のころは、大阪から潮干狩りに行くと言えば、御殿場浜でしたよ。
国道163号線(通称「四日市線」)を自家用車で東進していくのです。
叔父の日産「サニー」のバンでした。
カップヌードルというものを初めて食べたのも、その潮干狩りの昼食でしたっけ。

そんなことより「ヒトデ」の話です。
潮干狩りでよく見るヒトデは、あたしが当時手持ちの魚貝図鑑で調べたところ「キヒトデ」でしたね。

ヒトデのうんちくを少々…
・ヒトデの体の大きさは輻長(ふくちょう)といい、ヒトデの中心(口または肛門のある部分)から腕の先までの長さを測定する。
・ヒトデの消化器は、下面の口、円盤状の体内のほとんどを占める胃、上面の肛門で終わりである。中川翔子の好きなスカシパンやタコノマクラ類の体はヒトデの足を取ったものと考えればいい。
・ヒトデの胃は能動的で、ヒトデの口から出てきて、五本の強力な腕でこじ開けた二枚貝の体を、その胃が包み込んで消化する。
・ヒトデはサポニン毒性を持つらしく、食用には適さないが、くみ取り便所の便槽に放り込んでおくと、ハエの発生が抑えられるので海辺の便所ではよく行われているらしい。
・キヒトデは天草地方で、春の産卵期のものをゆでて食されるそうだ。もちろんその卵を食べる。
ざっと、こんなところでしょうか。
ヒトデを足一本にちぎっても再生するとかいうのは、さっきの魚貝辞典に載ってて、非常に気味悪く思ったことがありました。どうも、ヒトデの仲間には、自ら足を切って(自切)増えるのがいるとか。

ヒトデには右左がないようなので、次は人間の「右脳・左脳」について考えてみましょう。
あたしの旦那が左の脳の一部を脳内出血で損傷して右片麻痺になったので、ちょこっと調べたことがあるのよ。
右脳や左脳は学術用語ではないんだね。
脳外科学での呼称は右半球、左半球です。

良く言われる、右脳が芸術脳だとか、左脳が論理脳という根拠はないんですよ。
かつて、発達心理学者のサイモン・バロン=コーエンは、男性の大脳右半球の発達が女性に比べて早い時期から急速に起こるため、空間把握や分析力が高くなるとし、女性の場合は早期に大脳左半球の発達が男性に比べて早い時期から急速に起こるため、言語認知能力が優位となりコミュニケーションや共感能力が高まると発表しました。
これは俗説の「右脳・左脳論」と正反対の結果ですね。

左半球は古くから外科的に言語をつかさどる部位の局在があることが知られ(ブローカ・ウェルニッケ両野)、左半球の損傷はコミュニケーション力も損なわれる(失語症)というのが旦那の主治医の話。
左利きの人は3~5割程度、右半球に言語野を持つそうです。
したがって、言語野には強い局在性はないらしいことも先生は話してくれたわ。

しかしながら、一時感覚野と一時運動野の局在脳地図は存在するんですよ。
脳地図

脳関係の教科書に必ず載っている図です。
ある意味、局在の証拠でもあります。

脳の可塑性(回復力)の根拠として、損傷部位を補う他の部位が存在することがわかっています。
たとえば、左半球言語野を損傷した者がリハビリによって失語症を克服する例がそうです。
その場合、右半球が新たな言語野として働いているらしいんですよ。
ということは、そんなに左右で脳の働きが局在しているわけじゃない。

さて、じゃあ左右半球に脳が分かれているのはなんででしょうか?
たぶん「補償回路」としての意義があると思われます。
どちらか片方が損傷しても、生命や生活は維持できるようになっているんでしょう。
また、そうでないと補償の意味がないので、強い局在論は根拠を失うんです。
とはいえ、実験や病例から、ある程度の局在はあると示唆されるし、脳の発達の産物として局在が起こるのではないでしょうかね。

分子レベルでの左右半球の機能の違いが最近明らかにされつつあります。
しかし、それが「右脳=イメージ脳、左脳=論理脳」という短絡的な根拠にはならないと思います。
(Kawakami R, Shinohara Y et al. "Asymmetrical allocation of NMDA receptor epsilon2 subunits in hippocampal circuitry" Science. 2003 May 9;300(5621):pp990-4.)

ピアニストが左右の手を自在にあやつれることから、彼らの脳の発達も、ピアノを弾けない人とは異なっているだろうことは想像に難くない。
つまり、脳の配線(ニューロンの絡み合い)の違いであって、それは訓練の賜物(たまもの)と言うべきもので、左右半球いずれかが優位に受け持つといものではないと思いますよ。

話が飛びますけどね、あたし加藤登紀子さんが好きなんですよ。
おときさん、エディット・ピアフ(シャンソン歌手)をカヴァーされるんですよ。
いいですよぉ。
憂いのある声でね、大人の雰囲気…

エディット・ピアフと言えば、ジャン・コクトーですよね。
この二人は、没年月日が同じなの。
ピアフの死を聞いてショックを受けたのか、コクトーは、その日に自殺ではなく心不全で死亡したんだって。

コクトーと交流のあった有名人は枚挙にいとまがないの。
晩年のピアフはもちろん、プルースト、ココ・シャネル、ストラヴィンスキー、ディアギレフ、モジリアニ、ピカソ、ラディゲ、エリック・サティ、六代目尾上菊五郎などなど。

阿片(アヘン)まみれのうちに書かれた『恐るべき子供たち』は彼の自伝的なものを土台に書かれていて、代表作なんです。
恐るべき子供たち
探せば出てくるものねぇ。
あたしの書庫にあったわ。

覚せい剤は優れた芸術を産むのだろうか?
村上龍の『限りなく透明に近いブルー』で、あたしはセックスとドラッグの陶酔にあこがれた。
すでにあたしは科学者だったのでドラッグに手を出すことはしなかったけれど、知識がなければ流されていたかもしれない。
だから芸能人の覚せい剤使用のニュースを聞いて、同情こそすれ、批判はしない。
ただ、ドラッグをやって車を運転して、事故って罪なき人を巻き添えにするのはいただけないわ。

こっちの世界はいいわよぉ。
(なおぼんR)