真珠湾を望む小高い丘に「春潮楼」という日本料理店があった。
あたしは、そこで森村という若い男と、元広東総領事の喜多長雄という壮年の男と落ち合った。
昭和十六年という年は、大日本帝国が外交的に行き詰まっていた。

布哇(ハワイ)は常夏と言われるが、こういった場所にも季節がある。
海の色が季節によって変わるのだ。
それに椰子の木も、冬には葉を落とす。

「横山くん、どうだねビールをもう一杯」
喜多さんが、勧めて下さる。
「ありがとうございます。でも、あたし、これから」
「森村くんと、デイトかな?」
にやりと、下品に笑みを浮かべる喜多氏だった。
「そんな…」
森村の顔をうかがうと、意に介さぬという風に、巻き寿司を頬張っていた。
日系人の経営するこの料亭は、アメリカ人の軍属も出入りする。

あたしたち三人は、海軍の小川貫爾(かんじ)大佐の命を受けて、諜報活動に従事していた。
小川大佐は山本五十六聯合艦隊司令長官の特命で動く「スパイ」だった。
「森村君、どうかな。六月からの湾内の動きは」
「釣り人を装って、毎日、湾内で釣り糸を垂れながら、写真も撮りましたよ」
そう言って茶封筒を座敷の下から喜多氏に回した。
この森村という男と、あたしは深い中にあるのは、およそ喜多氏も察しているはずだった。
しかし、あたしは元々、喜多長雄の愛人だったのである。

「森村正」は諜報活動上の偽名で、本名は吉川猛夫と言った。
ベッドでそれとなく訊いたところ、英語が達者ということで引っ張られた海軍の士官だった。
階級は大佐であり、二十八にしては異例の昇進である。
まことに頭の切れる男で、諜報員としては申し分なく、冷徹さにおいても秀でていた。
警官の息子だった吉川は、表向きは「結核」ということで軍を退いて、山本長官の命により、諜報活動に勤しむべく布哇の地に赴任してきたという。

諜報活動に女は必須である。
米軍将官に近づくにも、女が隠れ蓑になるものだ。
あたしは、子爵家に生まれ、父の商売で布哇に十代のころから来ており、英語もそこそこ話せた。
喜多氏と知り合ったのは、ワイキキの将官専用の酒場だった。
そんな場所で日本人の女に出会うことは珍しいらしく、酔った喜多氏の方から、あたしに近づいてきた。
彼は、先の赴任地の広東(カントン)では「ボス」と恐れられ、ずっと嫁を取らず、独り者の気楽さで女遊びや酒に余念がない、ギラギラした男だった。
あたしも嫌いじゃないから、一緒に遊ぶうちに「おれの手足となって働かないか」と誘われたのだ。

「すごいな。ばっちり写っているじゃないか」
「下に日付と時間を入れております」
「さすがだな」
あたしが、ビールを干して、思いにふけっているうちに、男二人は写真に見入っている。
「横山くん、キンメル提督の側近には近づけたのかな?」
「ええ、ロバート大佐と昵懇にさせていただいています」
「どうかね。敵さんは、日本のことを何か言ってたかね」
「日本が、海軍を増強しているだろうということは気づいているようです。ただ太平洋艦隊に直接の影響はないのではないかと…それとですね、日本のスパイ活動にうすうす気づいているようなフシがあります」
「そうか…急がねばいかんな」
「喜多さん、航空母艦が新造されているのをご存知ですか?」
「アメリカの?」
「もちろん。太平洋艦隊にすでに配備されているか、される模様です」
「わかった」
森村がピンぼけの写真をさっきの袋から取り出す。
「これがそうじゃないかな」
そこには、ほかの軍艦とは形の違う船が写っていた。

あたしは、かりそめの褥(しとね)の中で森村から軍艦のことを習った。
「手前のがウェストバージニア、向こうのがテネシーで、みごとな籠(かご)マストだろ」
写真には、太平洋艦隊の戦艦が写っている。
桟橋に横付けになっているらしい。
たしかに、籠を編んだような構造物が二本、そびえている。
大砲には覆いがかけられ、水兵がその前で整列しているように見えた。
敷島(しきしま)をくわえて、煙たそうに目を細め、森村が説明を加える。
「この戦艦ネバダは三脚艦橋が特徴なんだ」
真珠湾には真ん中にフォード島という島があり、海軍の基地になっている。
島の周りを囲うように艦船が停泊している。
「それから、こっちがエンタープライズ。三年ほど前に進水した新鋭空母だ」
航空母艦という新兵器が登場するようになったと、彼ら軍人はよく言う。
「これからは飛行機が重要な戦力となる」
あたしは、このホノルルでも米軍の飛行機をよく見るようになった。
耳をつんざくような爆音で低く飛ぶ有様は、空恐ろしかった。

「なあ、なおこ…お前は、ロバートと寝たのか?」
「え?」
「キンメル提督の右腕のロバート大佐と寝たのかって訊いてんだよ」
「誘われたわ」
「ついていったんだろ」
「カネオヘの別荘に、ジープで行こうって」
「売女(ばいた)め」
「ひどい…あなただって、あたしの体が目当てのくせに」
「子爵様、これは失礼申し上げました。子爵令嬢が聞いてあきれるぜ」
いつも、こうだ。
森村は嫉妬深い。
ロバートのはでかかったか?
ロバートに、どんな抱かれ方をするんだ?
ロバートのを口に含んだのか?

あたしは、誘われれば断らない。
男の人に恥をかかせてはいけないと、そう思うからだ。
父が聞いたら仰天するかもしれない。
母なら許してくれるかもしれない。
いずれにせよ、両親にそんなことを口が裂けても言えないと思った。

アメリカの男性は、えてして優しい。
レディ・ファーストと言うのだそうだ。
喜多さんも、森村も女を抱くとなると自分本位であり、逝ってしまえば、さっさと煙草を燻(くゆ)らして寝てしまう。
あたしのほてった体に置いてきぼりを食らわして…

ロバート大佐とは、二度寝ただけだった。
彼にも奥様が本土におられ、アバンチュールのつもりだったと思う。
体が大きいからか、恐ろしく巨大な男根を見せつけられ、驚いたが、無理に入れようとはせず、手で逝かせてあげれば、満足してくれた。

そうしてみると、喜多さんや、森村の性器はずいぶん小さいと思う。
もちろん、この大きさなら胎内に難なく収められる。
人種とはそういう風に作られているのかもしれないと、妙に納得した。
日本人は日本人としか合わないのだろう。

あたしは、森村の使いで、頻繁に郵便物を日本に送る仕事をさせられた。
「もうすぐ、日本はアメリカと戦争をおっぱじめるのだ」
彼は、あたしにそう耳打ちした。

ほどなく、喜多さんからオットー・クーンというドイツ人を紹介された。
その男は目が死んでいて、一体、何を考えているのかわからない男だった。
彼も諜報員だった。
日本はドイツとイタリーと軍事同盟を結んでいたから、そういった関係で使われているのかも知れなかった。

森村とクーンとあたしは奇妙な三人組でスパイとなったのだった。