「杓底残水」とは「杓底一残水 汲流千億人」を四字に縮めたものだと思います。
※「しゃくていいちざんすい ながれをくむせんおくにん」と読むそうです。

この文句は、よく色紙などに揮毫される方が多いです。
気の利いた座右の銘ってとこでしょうか?
禅や茶道に造詣が深いと「思わせる」人がよく書きますね。
あたしの祖父もそんな人で、禅寺で修行をしたわけでもないのに、この文句を書いては人に与えてました。

道元禅師に由来する言葉らしく、彼が言ったかどうかは不明なようですけれども、杓で川水をすくって自分の渇きを癒すだけでなく、杓の底に残った水を、ふたたび川に戻し、そうすれば下流の千億の人々の渇きを潤す足しになるというような意味だと思います。

残り物も無駄にせず、ひもじい思いをしている誰かのために行きわたるように心を砕く…

はたまた、仏法も少しずつ広めていけば、一滴の水が川になり大海にそそぐように、いずれは多くの民に行きわたるものだから、自分ができる少しばかりの努力も無駄にはならないという教えでもあるそうです。

あたしのつたない経験で、なるほどそうだなと思う言葉に次のようなものがあります。
「読書百遍義自ずから見(あらわ)る」
そこそこ有名な文句ですので、解説の必要もありますまい。
難解な本も、何度も読み返すうちに、ある日、「なんだ、そういうことか」とわかるようになるのだと言うことですよね?
これはね、自分の成長もあると思うんです。
時が解決するというか、子供だった自分が、歳もいって、物事の理をわきまえるようになって、初めてわかってくるものがある。
大人になって再び手に取った本が、すとんと心に落ちるなんていう経験があたしにはあるのです。
反対に、子供ころに読んだ本で新鮮だった感動が、大人になって改めて読むと、たわいのない、幼稚な話に思えてつまらなくなったこともありました。

法律書は難解です。
資格試験のために、慣れない法律書を手に取らねばならない時がありました。
どう読んでも、頭に入らない。
一行も進まない。
もうだめだ。
そう、何度も思いました。
試験に何度も落ち、浪人生活が三年も続きますと、ずいぶん法文が読めるようになっていました。
結局、あたしは試験に及第することなくあきらめざるを得ない状況になったわけですが、この時ほど「読書百遍」の警句が自覚されたことはありませんでした。
それでも別れ際にお世話になった予備校の先生が「あなたが法律の勉強を一生懸命されたことは、きっとあなたの人生にプラスになるし、残ったこともたくさんあったはずですよ。無駄ではなかった。がんばった自分をほめてあげなさいね」とおっしゃってくださった。
あたしは泣けて泣けてしかたがなかったけれど、先生の言ったことは当たっていて、再就職したときに法律が役に立ちました。

六法や判例は、とても読みにくい文章です。
人によっては「悪文」の代表例とまで言われます。

今の仕事(機械工)になって、文章ではないですが図面を読み込むことが要求されます。
「読書百遍」はなにも文章だけではないのですね。
こういった図面も何度も、何度も、照らし合わせ、舐めつくすように見て初めてわかることがあります。
一見(いちげん)では、必ずと言っていいほど見落とします。
ネジの位置、種類、破線(隠れ線)の位置、部材の向き…
もともと理系の人間ですからこういったことは得意なはずなんですが、それはそれ。

人の書いた物、人の作った物には汲めども尽きぬ情報が秘められているのです。
顕(あら)わになっていないものがある。
行間を読まなければならない。
彼らがそれを作った背景や参考文献に当たらないと読み解けないことがある。
特許文献がそうです。

しかしそういった作業は、楽しいものです。
読書は何べんでもやっていい。
書き手と読者のキャッチボールなんですから。