ツェッペリン伯爵(フェルディナンド・フォン・ツェッペリン)は、その名を飛行船に残したことで、現代にも語り継がれていますね。
水素が空気よりも軽いという点に着目し、モンゴルフィエ兄弟の熱気球よりも安定的に浮力を得られる水素による風船をこしらえて、それにゴンドラと推進エンジンをつけて空を飛ぶアイデアは画期的かつ合理的でした。
彼の飛行船は「硬式飛行船」といって、アルミニウムの骨格に膜を張って気嚢を作る形式でした(1900年)。
現在の飛行船は「軟式」で、簡単に言えば「丈夫な風船」であって骨格を有しません。
同じ頃アメリカではライト兄弟が有人飛行機を初めて飛ばします(1902年)。

飛行船という乗り物は、その浮力は体積に比例するのに、その構造重量は寸法の三乗以下にできるので、大きければ大きいほど積載能力が増します。
第一次世界大戦(1914~1918)においてドイツは飛行船を戦争に投入し、爆撃や偵察の任務に活躍させます。
さほど戦果を上げることはできなかったけれど、視覚的な威圧感が敵の戦意を削ぐには十分だったとのこと。
しかし、このバカでかい浮遊体が、当時発達してきた敵の複葉戦闘機にとって格好の餌食になるのは時間の問題でした。

映画になったりして、みなさんもご存知のことと思いますが、1937年に、このツェッペリン型の飛行船「ヒンデンブルグ号」が、大事故を起こします。
見る者を恐怖に陥(おとしい)れるには十分な惨劇でした。
なんらかの火の気が、内部の水素に引火して一瞬のうちに火災を起こし無惨に焼け落ちたのでした。
ツェッペリン伯爵自身も水素の危険性は予測しており、早晩「ヘリウムに転換するべし」と考えていた矢先での事故でした。
ところで、この事故は水素ガスが原因ではないと、今では検証されています。
外皮に使われていたテルミットという塗料(酸化鉄とアルミニウム粉末の混合塗料)が極めて燃えやすく、静電気でこれに引火し、結局内部の水素に引火したとされています。
この塗料を使う限り、中身がヘリウムであっても同じ火災を起こすんですね。
ただし、やはり内部に可燃性気体が詰まっていれば大惨事は免れませんが。
以後、水素による有人飛行船は作られず、代わって高価なヘリウムを使う飛行船になっていくのでした。

少し時間を戻します。
ツェッペリンと飛行船の出会いは、彼が軍人時代に、アメリカの南北戦争の北軍に従軍したおり、気球部隊というものに出会ったことでしょう。
この気球部隊の気球には人が乗れ、「高みの見物」によって戦況を把握する観測用のものでした。
ドイツにはもうひとり気球のエンジニアがいました。
ハンス・ジーグスフェルトという技術士官です。
気象観測用の気球(ラジオゾンデの祖先)を開発した技師で、のちに動力付き「葉巻型」気球、つまり飛行船の原型を考案しました。
彼がツェッペリンを指導し、ダイムラー社との共同で高性能のエンジンを作成してツェッペリン号の完成に寄与したのです。
エンジンについては、ルドルフ・ディーゼルが1893年に彼の発明した内燃機関の論文が発表され、特許も取得していました。
ディーゼルはしかし、二十年後の1913年に失踪し、水死体で発見されます。
※1886年にカール・ベンツがガソリンエンジン搭載自動車の特許を取得していました。ドイツ恐るべし!
※1890年にイギリスのスチュワートが「焼玉エンジン」の特許を出願していますが、点火プラグを使わないという点でディーゼル機関に似ているけれど別物です。

ツェッペリンは飛行船の成功によって、飛行船旅客会社を設立しました。
大飛行船時代の幕開けです(1928年グラーフ・ツェッペリン号就航)。
翌年に「ヒンデンブルグ号」が世界一周の旅を成功させます。
※「ヒンデンブルグ」は時の大統領で、後にアドルフ・ヒトラーを首相に任命して、ナチスの台頭に道を開いた人物です。
1930年ごろまでは順調に事故もなく飛行船は安全な乗り物として認知され、大西洋を往復して人々を運んだのです。
しかし1937年にヒンデンブルグ号の悲劇が起こってしまう。
ドイツ軍としても飛行船の採用を中止せざるを得ませんでした。
もっとも飛行船の時代は、航空機に取って代わられようとしていたのです。