美人の香骨、化して車塵となる…(美人香骨 化作車塵)
楚小志のこの一文が、佐藤春夫の訳詩集『車塵集』の扉にあり、その詩集の命名の由来となる。

「エロ」と最近、軽々しく人の口に上る言葉は、実は文学や芸術の作為の上で大変重要なモチーフとなってきたことは、誰の目にも明らかだろう。
そうでないという方は、極端な禁欲主義で目が閉ざされてしまったのかもしれない。

「エロティシズム」が作品の根底に流れていることを、見る者が確認することによって芸術はその機能を発揮するといっても言い過ぎではなかろう。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオというルネサンス期のイタリア人画家がいた。
肖像画家として大成し、その後、禁断の裸婦像を数多く残している。
キリスト教会の厳しい戒律の中で、金持ちから盛んに求められたエロティックな裸婦の絵画を彼は緻密でリアルな筆致で描き、好評を得ていた。
依頼者の中にはバティカンの聖職者までいたというから、エロは垣根を取り払う効果があるらしい。
もっとも簡単に戒律を破られるのが色欲らしく、洋の東西を問わない。

下って、フランス、ルイ王朝のさなかには、セックスがおおっぴらに表現されるようになったらしい。
フェラチオの絵なども残っている。
日本の春画に当たるものと思われ、名もなき画家がせっせと描いて、糊口をしのいでいたのだろうか?
いや、名のある画家も名を秘匿して、描いたに違いない。
絵画だけではない、春本(エロ小説)も盛んに書かれた。
アール・デコ期のエロ本、またはそういう舞台背景をつかった上流家庭での背徳文学が良く残されている。

中国などは『車塵集』にも引かれているように、唐代にすでにエロティックな漢詩がものされ、女流詩人も多かったようだ。
宋代を舞台にした『水滸伝』のスピンオフ作品『金瓶梅』もすばらしいエロ文学である。
日本人は漢字文化を持っているので、中国のこうした文学を非常に好んで知識層などが読んだらしい。

ふたたび西洋の美術に目を向けてみよう。
ギリシャ時代の大理石彫刻は裸体が多い。
老若男女、なんでも裸体だ。
そして均整の取れた肉体で表現される。
ペニスは小さめに、包茎で奥ゆかしく表現される。
勃起状態を描くなんてのはやはり、憚られたらしい。
それでもエジプトの壁画には立派に勃起したペニスを堂々と描いているものがある。
それから日本の春画だ。
「ウタマロ」と、外人に人気の浮世絵の「枕絵」では、みごとな巨根が女を貫いている。
日本人はよほどペニスが大きいらしいと、世界では「黄金の国」とともに有名だったそうだ。
実際は、黄金の国でもなく、巨根の男もいなかった。
ただ「硬さ」は随一と、欧米人の女性には今も人気である。

アフリカのどこの民族だったか立派な木彫のペニス像を見せてもらったことがある。
とてもリアルで黒光りしており、そのままディルドとして使えるのではないかと思えた。
そういえば日本にも古代から「陽石」とか「金精様」というペニスを神格化したものが各地に存在する。
インドの「リンガヨニ」に端を発する崇拝だろう。

アミニズムでは豊穣や繁栄を祈念するために女陰や男根を崇拝することがよくされる。
その意味ではエロではなかったはずだ。
いつからエロになってしまったのか?

ここがわたしの永遠の思索なのである。
エロとエロでない境目があるのかないのか?
あるとすればどこで、いつごろそうなったのか?
そして現代のエロは、退廃なのか?進化なのか?
宗教の厳しい戒律の下で、ふつふつと沸き起こる快楽主義が隠蔽すべきエロを作り出したのかもしれない。
ではなぜ宗教は人を抑制するだろう。
快楽追及=堕落だからか?
生産性が落ちるからか?
エロぐらい開放的になってもよいではないかとも思うが、それは「現代」だからかもしれない。