奈良の鹿というと、春日さんの神の使いとあがめられて、いじめたりしたら大変な罰当たりということになります。
東大寺やその周辺の街並みに我が物顔で鹿たちは闊歩します。
その昔、だいたい江戸時代ぐらいかしら、奈良では鹿を殺したら死罪をまぬかれないとされていました。
えらい時代もあったものです。
徳川綱吉の発した「生類憐みの令 」のせいだとも言えないようで、昔から奈良では特別に鹿をそのように扱っていました。
人間より鹿が上なのです。

死罪のやり方も成人男性なら磔刑(はりつけ)、女子供なら石による生き埋めと、容赦ないものでした。

鹿は、だからか、人んちにどうどうと入って食べ物を食い散らかし、奈良の人々は鹿の悪行三昧に業を煮やしていたのです。

さてそんな奈良町に住まいをなす、豆腐屋の正直者で通っている「吉兵衛(きちべえ)」さんのお話です。
吉兵衛さんは毎日、日の昇らない暗いうちから仕事に取り掛かり、評判の豆腐屋だったのです。
豆腐屋というのは、皆さんもご存じかと思いますが大豆をたくさん使います。
湯がいた大豆、大豆の搾りかすの「おから」とか「きらず」とかいう鹿にとってもご馳走がたくさんあるわけです。
夜な夜な、鹿が吉兵衛さんの住まいに忍び込んで、おからを食い散らかすんですね。
吉兵衛さんはある夜更けに台所から物音がするので、そっと忍び寄って、様子を見ますと、なにやら黒い動物がおからをむさぼっています。
「犬やな。どついたらなあかん」
棍棒を持って、いっしょうけんめいにおからを食っている「犬」のどたまに一撃をくれてやると、そいつはばったり動かなくなってしまいました。
夜が明けて、明るくなるとそれが犬ではなく鹿だと気づく吉兵衛さん。
「えらいことしてしもた…」
しかし根が正直者だから、吉兵衛さんは代官のところに自首します。
時の代官塚原出雲守の屋敷で、神妙に事の次第を陳述する吉兵衛さんです。
塚原出雲は、吉兵衛の人柄をよく知っており、そのうまい豆腐の評判も知っていました。
しかし鹿を殴り殺したとなると、相応の裁きをせねばならない。
塚原出雲は吉兵衛を引っ立てて奉行の根岸肥前守に突き出します。

根岸は名奉行と名高い男で、取り調べの白洲を開きます。
根岸も吉兵衛が稀代の正直者であることを重々承知しているし、鹿を殺したごときで死罪という理不尽も以前から腑に落ちないと思っていました。

白洲にひれ伏す吉兵衛に向って根岸肥前は、なんとか吉兵衛を助けようと尋問するのですが…
「その方、他国の生まれであろう?他国の者には酌量の余地があるぞ」
「いえいえ、あたくしは代々ここで豆腐屋を営んでおりまする」
「じゃが、二、三日前から病で伏しておったのではないか?」
吉兵衛には奉行の言葉が、自分への助け舟だとわかっていましたが、
「お情けありがたく思いますが、犬と誤って鹿を殺したのはわたくしでございます。相応のお裁きをお願いいたします」
と、固辞するのです。
これには奉行の困り果てます。
なんとかこの正直者を助けてやりたい…
「おい、たれか!」
「はっ」
捕り手の一人が白洲の前に出てきました。
「鹿の死骸をこれへ、引き出せ」
「はっ、ただいま」
鹿の亡骸が、むしろに乗せられて白洲の中ほどに置かれました。
奉行がそれを調べ、こう言うのです。
「これは鹿のように見えるが、犬じゃ。角がない」
「これは異なことを賜る。春までに牡鹿は角を切り落とすのを奉行はご存じないのか?」
同席していた塚原出雲が言うのです。
「だまらっしゃい。左様なことを知らぬ奉行とでも思うのか?しからば出雲守殿、そして興福寺番僧・了全(りょうぜん)、そなたらを取り調べねばならんぞ」
実は、塚原出雲と番僧・了全は結託して鹿の餌代などのご料を着服して、鹿に十分な餌を与えず、よって鹿たちは腹を減らして町中の豆腐屋にまで餌を求めて荒らしに来たことを根岸は感づいていました。
※春日大社と興福寺は補い合う関係で存在しています。詳しくはWebで。

ぎくりと二人の男は言葉を失います。
続けて奉行は、
「お前たちの出納(すいとう)を調べてみるかな?どうじゃ?」
青くなる、出雲守と了全。
「さてもう一度皆に問う。これは鹿にあらず、犬じゃ…な」
「ははっ。どう見ても犬でござります!」
一同、平伏して唱和したのです。
「正直者の豆腐屋のそちゆえ、この度は斬らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)ないうちに早う立ち去るがよい」
「ははっ、ありがたき幸せ。マメで帰りまする」

(おしまい)

落語「鹿政談」の一席でした。