日々、旦那の介護に追われていると、自分の時間というものがなくなる。
要介護が4の人間というのは、何もできやしない。

立つことは立てても、その次の動作はどうしても他人の手を借りねばならない。
ポータブルトイレがそうだ。

使える左手は自分を支えるのに精いっぱいで、ベッドなどの手すりをつかんでいる。
右手は完全にマヒで、拘縮が進み、もはや邪魔でしかない。
すると、用を足すのにパンツが自分で下せない。

言葉はまだ、たどたどしい。
聡明な彼だったが、あまり難しいことを話すと根気をなくし、短気になって、いらだつ。

そしてふさぎ込む。

あたしはそれでも、家事をやり、彼の唯一の楽しみである食事の世話をする。
もともと料理の下手なあたしは、彼が障碍者になってから料理を覚えたくらいだった。
研究者のあたしは家のことなど顧みもしなかった。
掃除や洗濯は機械任せで、片付けも正直、苦手だ。
女だからもう少し小ぎれいにできそうなものだが、日ごろやりつけない者がつけ焼き刃でできるものではなかった。
あたしは人に教えを乞うことを良しとしない人だ。
気難しいらしい。
だから、親切な人でも、あたしに近づかない。
友も少ない。
それは早い時期から自覚があったけれど、どうしようもなかった。
男性には相手にされても、同性には疎ましく思われるようだ。

障碍者と一つ屋根に暮らし、そのしんどさで「もういや!」となる。
「なんで、あたしばっかり」と恨み言も口から出る。
彼に当たる。
彼もかんしゃくを起こす。
すさんだ家庭だ。
阿弥陀様はそれでも、最後までやり切れという。
死んでから、よいことが待っているからだ。
だから、自ら命を絶ってはいけないし、人を殺めてもいけない。
将棋でいえば、詰まされるまで終われないのだ。

この道は、自分の道であり、それを代わりに誰かにたどってもらうことはできないのである。
なぜなら、その「誰か」も自分の道を歩んでいかねばならないからだ。
生まれ落ちた時から、死がおとずれるまでの道は選ぶことができない。
また、どこにたどり着くかもわかりはしない。
それを希望と見るか、絶望と見るかは、あたし自身の大脳が判断することだ。
「心」ではない「大脳」だ。
「心」などどこにもない。
あるのは「大脳辺縁系」だ。
それだけだ。

仕事をする、家事をする、介護をする。
そのことが、あたしの生きることだということが演繹される。
もう少し分解すると、そこには食って寝て、排泄するということが間に埋まって、つながっている。
ハンバーグやソーセージの「つなぎ」のようにね。

いや、あたしはそういう人生を求めてはいない。
もっと、本を読んで、おいしいものを食べて、行きたいところに行って、好きな男に抱かれたいという欲もある。

歳を重ねると、足かせやくびき、手かせが増えるような気がしてならない。
口にまでチャックが取り付けられ、しゃべることもできない。

夜がよく眠れない。
何度も起こされるからだ。
彼は頻尿なのだ。
おむつでしてくれといっても「できない」らしい。
一度起こされると、しばらく眠れず、そのまま夜は明ける。

車を運転していると、凄まじい眠気に襲われることがある。
危ない目にも遭った。
路側帯やコンビニの駐車場に停めて寝ることもしばしばだ。
立場上、事故を起こすことは許されないし、あたしの代わりがいないので入院もできないのである。

阿弥陀様のお迎えが来てくれたら…
そう思うこのごろだ。

阿弥陀様は光だそうだ。
まぶしいくらいの光に包まれて召されるのだ。
無量光(むりょうこう)とはアミターバ、無量寿(むりょうじゅ)とはアミターユス、いずれも阿弥陀如来を表す言葉だ。
南無阿弥陀仏という「六字名号」を無心に唱えることこそ、あたしの浄土への招来を約束されるのだ。

銃の引き金を引いたことがあるか?
あたしはある。
軽いものだ。
これをこめかみに当てて引くだけで、ことは済む。
だから、あたしは銃を持たない。
簡単にそれをしてしまいかねないからだ。

夜中のもうろうとした心持ちの時、もし枕元にSIG P220があれば、かなりヤバい。
ああ、ヤバい。
ヤバいけど、気持ちがいい。
その前に、男の胸で眠りたい。
それは不倫ではない。
他人は不倫というかもしれないが、あたしはそう思わない。
このまま男にも抱かれないとすれば、あたしが不憫じゃないか。

そして冷たいトリガーを引くのよ。
さよなら。