大学生の読書量を調査した結果、半数以上の約53%の者が読書を全くしないことがわかったそうだ。
だが考えてもみよ、スマホがこれだけ浸透した社会である。
活字に置き換わるメディアに読者が移動したのだ。

便利とは手軽で、品ぞろえは沢山あるが、時間を選ばない、そして低価格であることだ。
それをかなえるのがスマホでありネットである。
大学生の知識欲がたちどころに低下したわけではなかろう。
一方で、学費を稼ぐのに忙しく読書の時間は取れないし、本を買う金もないという大学生の深刻な面も捨て置けない。

池上彰氏などは自身の経験から、読書の大切さを説く。
大方の知識人はそういうだろう。
私だって読書が好きだが、一つの疑問を持たないわけではない。
先生や偉い人が「読書が大事」を言うから本を手に取るという受動型読書では続かない。
「何が、どう大事なのだ?」
「それは本当か?」
教育者はこぞって学生に本を読めと勧める。
が、しかし読書の効果とはなんぞや?
江戸時代より「読本」が子弟教育の要とされ、あの頃はもっぱら「音読」だった。
『論語』などを意味も解らず音読させられたのである。
人間が考えをまとめるには言葉を用いる。
頭の中でも母国語で文言を構築し、考えを想起する。
寝言が母国語なのは脳内が母国語に支配されているからだ。
その母国語を習得させるために「音読」が勧められたのだ。
しかし「音読」にはエネルギーがいるので、低出力の「黙読」に次第に人は移っていく。
実際、大人で「音読」をするなんて常軌を逸しているし、はた迷惑である。
図書館では絶対やってはいけない。

現代の読書は「黙読」である。
黙読は発声を伴わないので、視覚認識だけで読み進むから斜め読みや飛ばし読みが可能で、速読法を用いればかなりの読書量をこなせる。
それでも大学生の読書量は減るばかりである。

本を読むと、書き手の「言い回し」や「文体」を気に入って、自分がものを書くときに真似ることがある。
こういったことが美しい文章を書く訓練になると言われる。
好きな話し方を人から学ぶのと同じである。
声色までまねてみたり、落語家の真似をしてみたり…
人はまねるのが好きである。
そうやって、自分が何かするときの手本にしているのである。
本を読むと、読めない漢字や知らない言葉に出くわす。
すると、調べてみたい、知ってみると、次はどこかで使ってみたいという要求が起こることがある。
これらも読書の効用ではなかろうか?
情操が育つというのもある。
感動的な話を読むと、自分も主人公にようにありたいとか、冒険したいとか、苦難に立ち向かえそうなヒントをもらうことがある。
また人を思いやる気持ちが育ったり、人のために何かしようと思うかもしれない。

おそらく知識人たちが「本を読めばためになる」と口をそろえるのはこういうことを言いたいのだろう。
私はあえて否定しないし、事実、読書にそういう面があると思っている。
しかし、相手が大学生であり、その人たちに「もっと本を読めば?」とは過保護だと思う。
私などは、本を読むか読まないかは自己責任であり、趣味の問題だと思うからだ。
読書なんて趣味なのである。
盆栽や、囲碁将棋、ゴルフのようなものである。
だから国民みんなが本を読んでいるというほうが特異だとさえ思う。
新聞離れが叫ばれて久しい。
朝夕の新聞を取っている私などはめずらしいらしい。
最近はネットのニュースで時事を知るのが一般だというから。
世の中が多様化しているのである。
本や新聞はメディアの一部でしかなく、その代替品はちゃんと存在している。
電子書籍はそこそこ売り上げを伸ばしているそうだし、漫画に至ってはもはや電子コミックが主流といっていい。
本など読まなくても、人は育つように世の中がなっている。
こんな調査をして、本を読まない人を中傷するつもりなんだろうか?
パン食の人にコメを食えというようなものではないか。

しかし、私は本を読むし、古本屋巡りは楽しい。
電子書籍はいまだ使ったことがない。
枕元には本が積みあがっているし、これを見るだけで幸せなのだ。
「積ん読」は本好きならば必ずやっているだろう。
所有することに幸せを感じるのだ。

だから人が本を読まないことなんて、どうでもいいのである。
私は趣味として本が好きなだけだから。