「ヒコーキ野郎」という言葉は、たぶん映画から来ているんだと思う。

『華麗なるヒコーキ野郎』ですね。
私が、ヒコーキにあこがれたきっかけの映画がこれと『雲のじゅうたん』というNHKの朝ドラでした。
で、『紅の豚』にも出てきた「シュナイダー・トロフィー(カップ)」を争うヒコーキレースが飛行機の黎明期にありました。
シュナイダートロフィー
シュナイダー・トロフィー(Wikipediaより拝借)

それこそ国の威信をかけた、時代の先端を行く航空機によるレースです。
(もちろんガソリン車が生まれたときにもカーレースが行われ、帆船時代でもティークリッパーレースがあり、アラブではラクダのレース、モンゴルやイングランドでは競馬と、人間さまは競争が好きだ)

レジナルド・ジョセフ・ミッチェルという男の子がイギリスのスタフォードシャーという町に生まれました。
1895年5月20日のことでした。
レジナルドのお父さんは小学校の校長先生で、それなりの裕福なおうちに生まれたのです。
彼が生まれてまもなく、お父さんは学校を辞めて、自ら印刷の工房を起こします。
このころ、輪転機なるものが普及していて、また活字もライノタイプというタイピングで選んだ文字列のまま鉛を鋳込む方式が発明されたんですね。
そういうわけで印刷業が、今のウェブデザイナーみたいに花形の職業だったのです。
レジナルドはそんな環境で少年期から青年期を送り、高校を卒業すると、これまた当時の花形職種であった蒸気機関車工場に勤めます。
彼は蒸気機関車から機械のイロハを学び、金属加工技術や製図法を身に付けます。

当時の陸上輸送機関の中心が蒸気機関車が引く列車だったのです。
そして産声を上げたばかりの「飛行機」なるものが、若者たちの心をつかんで離さなかった。
若者だけではない、老いも若きも、空を飛ぶ夢が現実のものとなったことに興奮を覚えたのです。
お金持ちは、こぞって飛行機に手を出し、投資し、世間の耳目を集めようとしました。
ことにイングランドでは、貴族の趣味が乗馬から飛行機に移っていったのです。
そして軽飛行機のクロスカントリーレースなんかが、そこかしこで始まり、その輸送手段が馬車と蒸気機関車が引く貨車でした。
まだ自動車が走れるほどには、道が整備されていなかったのです。

飛行機レース中も、飛行機はどんどん遠くへ飛んでいきますが、燃料や交換部品などのバックヤード部隊は蒸気機関車で追いかけるのでした。
なんとも、のどかな時代ですね。

道は市街地だけは、もとから馬車道があったので、自動車が走れるくらいには整備が進んできていましたが、当時は、まだまだ馬車にエンジンがついたような華奢な車でしたので、舗装されていない道はとても走れません。
それでもイングランドでは、ヘンリー・ロイスと、チャールズ・ロールスの「ロールスロイス」の車がもてはやされていました。
遠く北米では「T型フォード」なる、廉価な車が量産されている頃です。

1912年(大正元年)12月5日に、フランスの武器商人の御曹司ジャック・シュナイダーがパリでのフランス航空協会のパーティに招かれました。
お金持ちの「ヒコーキマニア」のパーティで、酒が入ると、みんな気が大きくなって、ジャックは「国際的な飛行レースを開催し、わたしが千ポンドのトロフィを出そうじゃないか」とのたまった。
それに加えて優勝者と次点者に毎年合計千ポンドを三年間出すというのです。
このころ、まだ飛行機会社というものは零細企業で、趣味でやっている人がほとんどでしたから、この賞金は魅力的です。
金さえあれば、もっとすばらしい飛行機が開発できるからです。
(当時の飛行機は約50ポンドもあれば作れた)
これを聞いた各国の政府やその軍隊も色めき立ちます。
「シュナイダー(カップ)レース」とのちに呼ばれるこの大会は、国家間の威信をかける開発競争に発展するのでした。

第一回シュナイダーレースは1913年の4月3日から同月16日までモナコでおこなわれたようです。
不慮の墜落に備え、参加機は水上機(飛行艇を含む)限定で、海上を舞台にしたレースでした。
レースに出場するための予選に当たる「審査会」があって、飛行機の出来栄え、安全性をフランス航空協会が審査して合格した機で勝敗を争うことになっていた模様です。
最終日の4月16日に決勝戦がおこなわれ、フランス機が3、アメリカ機が1のたった四機のレースとなりました。
優勝はフランスの「ドベルデューサン」という飛行機を操ったモーリス・プレボでした。
時速70㎞あまりという、今では考えられないほど遅いスピードでの優勝でした。

1914年春の「第二回大会」は、昨年の優勝国がフランスだったので、再びモナコで行われました。
初めてイングランドのピクストン氏乗機の「ソッピース タブロイド」水上機が時速139㎞でトロフィーを勝ち取ったのでした。
ただ、この「ソッピース」のエンジンはフランス製「ノーム」だったことでフランス人たちも気をよくしたらしい。

このように、科学技術の成果が日常生活に大きな変化をもたらしており、これらは産業革命から始まる工業の大きな人類の進歩でした。
そして、各国の思惑や利権がぶつかり合い、軍拡競争を惹(ひ)き起こして、徐々に国際関係を歪めていくのです。
まさに「飛行機」の発明は、軍拡競争の火に油を注ぐ技術でした。

このころ、レジナルド・ミッチェルは夜学に通って、製図や機械工学、数学を学びます。
自宅にも工作機械(旋盤)を据え付けて、自ら金属加工を手掛け、技を磨くほどの熱の入れようでした。
サラエボ事件から一か月後の1914年7月28日、ついにヨーロッパは戦争に巻き込まれます。
のちに「第一次世界大戦」と呼ばれるこの戦争は、はじめて「世界大戦」として新聞に書かれました。
ナポレオン戦争終結以来、およそ一世紀も平和な時代を過ごしたヨーロッパでしたが、ドイツの覇権は、虎視眈々と領土拡大のための侵略の機会を狙っていたのでした(「3B政策」参照)。
ついに、この大戦は、シュナイダーレースを中止に追い込んでしまいました。

そのころのレジナルドは、蒸気機関車工場で有能な機械技師として兵役を免れていました。
彼は1917年に、サウザンプトンのイッチェン川河口、ウールストン埠頭にあった「スーパーマリン社」に引っこ抜かれたんです。
この会社名、聞いたことがあるでしょう?名機「スーパーマリン・スピットファイア」の会社です。
レジナルド・ミッチェルは、「スーパーマリン社」で技師長を務めていたヒューバート・スコット・ペインの助手に選ばれるのでした。

1918年にベルサイユ講和条約が結ばれ、大戦は連合国側の勝利で終わりました。
負けたドイツは、当面、兵器はもとより、特に航空機の開発を凍結させられてしまいます。
ただしドイツは自国の飛行機メーカー「フォッカー社」をオランダに移して開発を続けていました(1919年)。

1919年にシュナイダートロフィー・レースが、第二回大会で優勝したイングランドの航空協会主催で再開されることになりました。
霧の多いイギリスでのレースは結局、イタリア機一機だけが残って優勝となるはずでしたが、濃霧でレースが成立していないとのクレームがつき、イタリアにトロフィーは与えられたけれど優勝とはならなかったそうです。

ところで、1920年にスーパーマリン社のペイン技師長がレジナルド・ミッチェルを英国空軍の飛行艇の設計主任に抜擢します。
この年のシュナイダーレースは、昨年のトロフィーを受けたイタリアが主催を主張し、ベニスでイタリア航空協会が執り行いました。
そして、見事にイタリア機「サボイア」が優勝します(時速172㎞)。
すると1921年もイタリア開催となり、またもやイタリアの「マッキ」が優勝してしまう。
これには理由があって、1920年も1921年のレースも他国の飛行機は故障してしまい、最終レースに残ったのが皆イタリア機だったんだって。
 
レジナルド・ミッチェル技師は、どういう気持ちでこれまでのシュナイダーレースを見守っていただろう?
自分が設計した飛行機で出場し、トロフィーを勝ち取りたい…そう思ったに違いない。
私はそう思っています。
レジナルド・ジョセフ・ミッチェルレジナルド・ジョセフ・ミッチェル

1922年のシュナイダーカップレースを目指して、スーパーマリン社は全社を挙げて取り組み、ミッチェルはそのための特別な飛行艇を設計します。
すでに彼は1920年に、自身の開発した処女機「マルトムシャム」という水陸両用機を完成していました。
エンジンに自国のロールス・ロイス「イーグルⅧ型」を使い、政府の八千ポンドもの補助金を獲得したのです。
「マルトムシャム」は優秀な飛行機で、英空軍からも、オーストラリア軍からも発注を受け、1941年まで使われていたと記録されています(バランタイン版第二次世界大戦ブックス『スピットファイア』)が、私の手元には資料がありません。

シュナイダーカップ・レース用に開発されたスーパーマリン社の切り札「シーライオンⅡ型」飛行艇も水陸両用で、ミッチェルの設計思想が生かされていました。
ただしレースでは車輪を取り払って、完全な飛行艇として出場したのです。
1922年、開催地ナポリに「シーライオン」は運ばれました。
この回で、もしイタリアが優勝すれば、トロフィーはイタリアが永久的に所持する規定になっていたのですがイタリアは辞退を宣言していました。
先の無効になったイングランドの大会から数えればイタリアはすでに連続三回の優勝を重ねていました。
とはいえ、先にも書きましたが、濃霧や参加各国の飛行機の不調などでイタリアの優勝は奇貨にすぎなかったとして、潔くイタリアはトロフィ永久保持の権利を放棄したのです。

だったらなおのこと、イタリアの連覇を阻止しなければならない…
イングランドのパイロット、アンリ・バード(ビアードとも)の双肩と、ミッチェル設計の「シーライオン」に1922年大会のトロフィーの行方がかかっていたのです。
そして見事に、全行程370㎞を時速234㎞でぶっちぎった「シーライオン」が優勝しました。

1923年の開催は規定によりイングランドとなります。
ドーバー海峡のワイト島の沖を開催地に選び、アメリカ海軍が「カーチスCR3」水上機(デビッド・リッテンハウス大尉)で参加し、見事に優勝します。
ミッチェルの飛行艇よりも「カーチス」の水上機のほうがスピードにおいて優った瞬間でした。
※おそらくこの年の大会と1926年アメリカ・ハンプトン・ローズ大会のエピソードをもとに『紅の豚』が描かれているものと推測します。ポルコの乗機はイタリアの「サボイア」でしたが、飛行艇でしたね。恋敵のドナルド・カーチスは「カーチスR3C2」だった。

「R3C2」は1925年(1924年は参加がなく開催が見送られた)、ボルチモアで開催されたシュナイダーカップ・レースの優勝機でした。
ジェイムズ・ドゥーリトル大尉がこの機で優勝を果たしたのです。
※ドゥーリトルは、太平洋戦争で初めて帝都空襲を企てた作戦の立案者でその作戦名は「ドーリットル空襲」として記録されています。

このボルチモア大会では、イギリスはミッチェルの設計になる「スーパーマリンS4」という水上機で戦いましたが残念ながら2位に終わります。
この大会から、速度記録は時速350㎞を優に超えていました。
スーパーマリンS4のエンジンはグロースター社の「ネピア」で700馬力を越えるものを搭載しミッチェルの自信作だったのですがイギリスは優勝を逃すのです。
※「スーパーマリン」の「マリン」は「海」のことで、1912年創業のころから飛行艇を専門に扱っていた。社名は創業者のノエル・ペンバートン・ビリングの着想から命名されたそうで、つまり彼は飛行家でもあり「空飛ぶ舟」を想像していました。ミッチェルが飛行艇製作にたずさわったのもそういう会社たからですね。

1926年の大会は、イタリアのファシスト党党首ムッソリーニが「何としてもイタリアにトロフィを」と命じて、マッキ社を奮い立たせての参加でした。
実際この大会はアメリカとイタリアの一騎打ちになり、イタリアのマッキの勝利に終わります。
そして翌年1927年のベニス大会、ミッチェル設計のスーパーマリンS5が優勝し、以後隔年開催になって1929年、1931年とイギリスが連覇(スーパーマリンS6、S6B)して、見事にトロフィを永久獲得したのでした。
1931年大会を最後に1981年にイギリスで復活されるまでシュナイダーレースは封印されたのでした。
イギリスで復活したシュナイダーレースはレシプロ機に限るレースとして今も毎年、開催されています。

一方、レジナルド・ミッチェルはどうなったのでしょうか?
彼はシュナイダーカップレースの快挙のあった1931年から、軍用機の設計開発に専属となり、「スピットファイア」の開発にいそしむことになります。
ただ、彼は癌に侵されていました。
1933年に手術をして、日常生活を取り戻し、ドイツに旅行に出かけるんです。
そのころのドイツはナチスが席巻していました。
ミッチェルはその異常さに不安を覚え、いつかはイギリスもナチスに侵されるのではと危惧し、はやく防空戦闘機の開発を急がねばとの思いを強くするのです。
「スピットファイア」には「ケストレル」から発展した航空エンジン、ロールスロイス「マーリン」という高性能液冷式エンジンが搭載され、特徴的な楕円翼を持ち、全金属製のとてもスマートな機体でした。
同じころ、ドイツではメッサーシュミット博士らによる、これまた全金属製の軽快な単発戦闘機が産声を上げていたのです。
※メッサーシュミットMe109試作機にはロールスロイス「ケストレル」が搭載されていたらしい(1935年)。「ケストレル」はエンジンケーシングを鋳造でつくった最初のものだった。
後に雌雄を決することになる二つの運命の飛行機が生まれつつあったのでした。

1937年、ミッチェルは再発した癌のために倒れます。そしてそのまま帰らぬ人となってしまいました。47歳だった。
「スピットファイア」は、ともに寄り添ってきたジョセフ・スミス技師に引き継がれ、メッサーシュミットに後れを取りながらも、完成し「バトル・オブ・ブリテン」で大活躍しイギリスをナチスの手から守ったのでした。

「華麗なるヒコーキ野郎」だったレジナルド・ジョセフ・ミッチェルの短い生涯はシュナイダー・トロフィー・レースとともにありました。