性同一性障害の「女→男」の方の話を読んでいると、どうやら「理想の男性像」があるように思える。
つまりは、「凛々しい男性」みたいな偶像があるようだ。
自分がそうありたいという願望が、女の体では体現できないので男になりたいと。
決してその辺で、くだをまいている「おっさん」にはなりたくないのである。
性同一性障害者も「らしさ」にこだわっているということか?

彼女ら(彼ら)は、究極のナルシストにちがいない。
自分にはふさわしい性があるのだが、残念ながら親からもらった体はそうなっていない。
だから自分を愛せない。
このままでは生き辛いから、性の不一致を変えてしまおう。
という図式が成り立つようだ。

で、なりたい性の理想があって、それは彼女らの場合「男の中の男」のようなものがそうらしい。
決して男の中の男が多数派ではない世の中で、追い求めるのはそういう理想なのだった。
ホルモン治療したり、手術をしても、理想からは乖離していくばかりで、結局、普通の、華奢な「おっさん」の一丁上がりである。
私に言わせれば「それ見たことか」である。
悪いが「ざまあ見ろ」だ。まったく。
そんな生物として逆行する方法が、簡単に通るわけがないのである。
周りが認めよだと?
まあ、認めてやってもいい。勝手にしろだ。

逆に「男→女」は古来より成功例があって、別段、手術によらずとも「女形」など、化粧でなんとでもなるようだ。
梅沢富美男を見よ、マツコデラックスを見よ(?)…
Mattはどうだ?(彼は、あくまでも美しい「男性」だが)

それでも彼ら、彼女らは、年齢には勝てないだろう。
おっさん、おばはん、おじい、おばあになっていく。
それでもアイデンティティを保てるようにするのが、性の解放だと思う。
博多淡海や、ばってん荒川、桑原和男(和子)は好例である。
ばってん荒川(ばってん荒川さん)

ここまでやってほしい。
男の究極は「おっさん」であるし、女の究極は「おばはん」なのである。
近年「おばはん」化する「おっさん」、「おっさん」化するOLが増えているそうだが、良いではないか。
それほど日常で性は入れ替わるものなのだ。
何も、戸籍の性まで変えてするもんじゃないよ。

私は、人間、歳をとるにつれて「うまみ」が出るもんだと思っている。
性同一性障害者も豊かな人生を送って、「うまみ」を出してほしいものだ。