京都で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性が安楽死をさせてくれと医師に依頼して、二名の医師が関与して「本懐」を遂げさせたという事件があり、世間の耳目を集めている。
女性はHさんとしておこう。
Hさんは、とても有能なキャリアウーマンだった。
仕事も順風満帆だったある日、体の不調を訴える。
主治医の判断では難病で勝つ不治の病「ALS」と診断された。
そしてその診断が誤診ではなく、医師が予見した通りに、Hさんの運動機能を一つずつ奪っていき、ついには「寝たきり」になり、人工呼吸器を使って延命し、意思の疎通も目の動きで会話するほかなくなった。
それでも多くのALS患者は他人の助けを得て、生きるという選択をしている。
だからか、ALS患者やその家族の多くからは、Hさんに「気持ちはわかるが、ほかに選択肢はなかったのか?」と悔やむのである。
テレビに出てくるALSの患者さんはみな前向きだ。頭が下がる思いだ。
私がもしこの病に倒れ、Hさんと同じ立場になったら、やはり安楽死の方法を模索するだろう。
安楽死は敗北なのだろうか?
もっと言えば、人生に勝利だの敗北だのというような処断の仕方があるのだろうか?
今を生きているALSの患者さんは、Hさんの行為に否定的だけれども、本当は彼女に嫉妬しているんではないだろうか?
「うまくやったな…」と。
その意味で、Hさんは勝者なのだと私は思う。
請負人の医師はブラックジャックのライバル、ドクターキリコに仮託して、安楽死の必要性を説く。
医学では助けられない病はたくさんある。
病と闘うことが主眼に置かれた社会こそ、生きづらいのではなかろうか?
闘って快癒するならそれでもいい。
医者がさじを投げ、延命治療しか方策がなく、苦痛にさいなまれながら、死を待つ患者を作り出していることに「人権侵害」を認めないのか?
尊厳死という人権尊重の死の迎え方があるのに、その先を棚上げにして真剣に考えようとしていないと私などは思うのだ。
ALSの患者たちやその支援団体は、この事件を機に、安楽死の議論が進むのを嫌がっている。
それはおかしい。
是非について、もっと議論を戦わせないから、ネット上の「炎上」をつくってしまうのだ。
安楽死を希望するも、嫌悪するも、人に強要されてするのではなく、自分が主体となって、それこそHさんのように請負人を見つけ、商談し、本懐を遂げるという形が望ましいし、そうあるべきだ。
本人そっちのけで、周囲の人間が「この人は死んだほうが幸せ」などという身勝手な安楽死が恣意的に行われることは厳に慎まなければならない。

ALSに限らず、重度の障碍を持った人たちは、自分の苦しみよりも、周りに迷惑をかけているという気持ちが強く、「ならば、私が消えれば丸く収まる」と考える人も少なからずいる。
そういう気持ちを抱かせない、気を使わせない社会ができたら、障碍者の生きづらさは軽減するだろう。
ALS患者団体や、安楽死否定の多くの医師は「社会が変わればこのような悲劇は起こらない」とまでいう。

しかし、それは「おめでたい」考え方だ。
社会変革を伴う、もっと言えば思想信条にまで踏み込んだ「社会を変えよ」という押し付けは良くない。
これは差別がなくならないのと同じ理由だ。
私だって差別はなくなってほしいと思っている。
でも、内心には、表に出せないブラックな自分が住んでいることも知っている。
あなたにそれがないと言えるか?
身動きが取れない障碍者をみて「早く、死なせてあげれば」と思ったことはないか?
不可逆な障碍を持って、克服している人は多いが、頑張れない人もいることも私は見てきた。
正直「死にたい」とこぼす彼ら、彼女らを知っている。
そんなときに「もう少し頑張ろうよ」「生きてりゃきっといいこともあるよ」なんて無責任な言葉をかけられない。
安楽死を認めると、自分が意に反して殺されるんではないかとか、抹殺されるんではないかという不安を持つ障碍者がいても不思議ではないし、不安だろう。
しかしそれとは別に、死を希望しているひともいて、それもまた守られるべき人権なんだという視点も欲しい。

私は、意思疎通の乏しくなった、半身不随の伴侶を面倒見ながら、日々、刻々と蝕まれているなと思う。
それは障碍者本人はもとより、世話をしている私も蝕むのである。
「いっそのこと…」そう考える日も増えた。
実行すればそれは取り返しのつかないことになることも、科学者である私も承知している。

自由に暮らしているように見える周囲の人々をながめながら、指をくわえている毎日だ。
Go To トラベルかぁ、行ってみたいな。
温泉に浸かって、上げ膳据え膳で飲んで食って、寝てしまう…それだけでいいから、してみたい。
ほんとは夫婦でそういう夢を持っていた。
しかし、もはや彼を連れていけるところなどない。
私の仕事が増えるだけだ。

テレビを見るのもつらい。
定年後、夫婦で山村に暮らしている様子や、家族旅行の楽しそうな景色。
すぐにテレビを切ってしまう。
反対に、豪雨で家が流されたり、泥だらけになって途方に暮れる人々を、私は憐れんで、下に見て力を得ている暗い部分にも気づいたので、やはり見ないようにした。

私の心は、日に日にとげとげしさを増しているのかもしれない。
新型コロナの感染者がうなぎのぼりに増えていることを、表面上は危惧しながら、いくところまでいったらどうなるかというブラックなわくわく感まで心に潜ませているのだ。
安倍政権がどん底まで失墜し、日本経済もどん底を這い、「ジャパンアズナンバーワン」なんていう幻想をボコボコにしてしまう痛快さ。

実際それを経験しないことには、私も日本人も真の勇者にはなれないのだ。
敗戦から這い上がったように、人を食ってでも生きながらえるほどの辛苦を味わわねばと、李登輝氏は草葉の陰でつぶやいているに相違ない。