嵐は、今朝六時ごろ急に東へ進路を変え、速度を上げて日本から遠ざかっていった。
第二金剛丸からの発信は四時の定時報告を最後に途絶えた。
波浮港の基地局の通信士、塚谷恭一郎がいくら電鍵で呼びかけても応答がなかった。
考えられることは、最悪の場合、沈没または転覆であり、希望的観測で言うならば発電機の燃料切れか、通信機の不具合で連絡ができないでいるかのいずれかだった。

伊豆大島付近は嘘のように晴れていたが、波は高かった。
立木祐介は別荘の庭に出て、折れた棕櫚の葉などを拾いながら、嵐の爪痕を探していた。
舟屋りんの母親が、早朝から見舞いに来てくれて、朝餉の支度をして家に戻っていった。
「りんさんは?」と祐介が訊くと、「昨晩から中嶋水産に出ずっぱりでしょうのないこと」とこぼしていた。
中嶋治次のことが気になるからだろう…祐介はそう思った。
「おふじのお父さんはどうしただろう?」
祐介は塚谷ふじのことを想うと、いてもたってもいられなくなった。
でも、ふじの住まいを祐介は知らなかった。
帰ろうとする舟屋の小母さんに、「あの、塚谷さんの家(うち)ってどこなんですか?」と尋ねてみた。
「ああ、おふじちゃんの?」「ええ、まぁ」「そうだ、おふじちゃんのお父さんも漁に出たまま帰らないとりんが言ってたずら」
そう言って、塚谷ふじの家を教えてくれた。
祐介は心配だった。ふじがどんな気持ちで昨夜を過ごしたか、身につまされた。
「母さん、ぼくちょっと出てきます」
「海に行っちゃだめよ。まだ荒れてるから」
「わかってます。塚谷さんのところに」
「だれ?」
「帰ったら話します」そういって、急いで玄関を飛び出した祐介だった。
坂を下って、最初の四つ辻を左に折れて…

りんが、中嶋水産の事務所を出たのもその頃だった。
「とにかくおふじのところへ知らせに行かんと」
まだ、最悪の事態になったわけではない。無事で漂流しているだけかもしれない。
嵐が去ったので、中嶋水産の僚船が第二金剛丸の捜索に出ることになった。
この時代、海上保安庁がGHQの肝いりで産声を上げたところで、まだ装備も人材も成っていなかったから、海難事故は漁業会社や知り合いの漁師たちだけで手分けして捜索するほかなかった。
治次もその先頭にたって指揮を執ることになる。

すると向こうから開襟シャツ姿の祐介が歩いてくるのをりんがみとめた。
「祐介君!」「りんさぁん!」
互いに呼び合って、接近する。
「治次さんは?」祐介の方から安否を気遣う。
「治次は大丈夫なんだけど、おふじのおとッつぁんの船が帰らないの」
「ええっ!」驚きの声を上げたのは祐介の方だった。
中嶋治次が漁船団を組んで、第二金剛丸の捜索に当たっていることなどを聞いても、祐介は安心できなかった。

二人で、塚谷ふじの長屋を訪れた。
庭で、臨月を迎えたふじの姉、ちよが洗濯物を干している。
祐介にとっては初顔合わせだった。
「あら、りん」「おはよう、ちよさん。この子が立木祐介君」
ちよが手を止めて、祐介の方に向き直った。
「妹によくしてもらって。姉のちよです」
「立木祐介です」祐介も頭を下げる。
「それより、ちよさん、おとッつぁんの船が漁に出たまま波浮に帰らんで」
「え?まだ港についてないの?」「うん」
「おっかさん!ふじっ!」
大きなおなかを揺らせて、ちよが玄関にもどって家族を呼ぶ。
「どうしたんだべ?」ふじたちの母親が怪訝そうにこっちを見る。
「りんが知らせてくれた。父ちゃんの船が帰らんと」
「あんまぁ…」
事情をりんから説明してもらい、塚谷家では家族会議が始まった。
「とにかく、朝飯食ったら、中嶋水産に来て」と、りんが促した。
寝起きのふじは祐介を見ると「来てくれたんやね」
「ああ、心配で…」
「ありがと。お父(とう)のことやし、大丈夫よ」
気丈にも、ふじはそう言って祐介を逆に安心させようと努めた。

祐介とりんは、ふじの家からの帰り道、いろんなことで頭の中が未明の嵐のように渦巻いているような気がしていた。
「あのさ、祐介君」「はい?」
「ふじのこと、どう想っとるん?」
祐介は、気持ちを正直に言うべきかどうか、言葉に詰まった。
もとより飾る言葉など持ち合わせてはいない。
「好き…だと思う」
蚊の鳴くような声で祐介が答えた。
「もっとはっきり!」
「だからっ!好きだってば!」
「よろしい!」
先生のような口のきき方で、りんが祐介の前に立ちはだかった。
「おふじもぉ、あんたのこと好きだって」
「えへっ」照れ笑いをする祐介だった。
「あんねぇ、大人はどう言うか知らんけんど、好きなもん同士は、寄り添うもんずら」
「寄り添うって?」
「ぬしは童貞ずら?」「…」
「なら、おふじを抱いてやれ」
祐介は、突然のりんの言葉に、驚きを隠せなかった。
「やり方は、おふじが知っちょるから。安心しぃ」
どういうことなのか、祐介にはにわかには理解できなかった。
後で考えるに、ふじは「経験者」だとしか考えられなかった。
それはそれで幻滅してしまう話だったが…

その日の夕方、決定的な知らせがふじたちにもたらされた。そこには兄、武一の安否を気遣う小平さねの姿もあった。
「第二金剛丸転覆、生存者なし」と。さねが泣き崩れた。「あんちゃん…」
赤い腹を見せている「第二金剛丸」を、僚船が八丈沖、15浬(かいり)南方で見つけ、内部を潜水士を使って捜索したが、誰もいなかったそうだ。
捜索隊はしかし、付近で浮き輪に捕まって漂流する八田元太の姿を発見したのだった。
海水を飲み、衰弱した八田によると、本日の払暁、船倉の冷凍庫から鮪2屯余りをデリックで順次引き上げて、海上投棄を企てたが、おりしも、風と高波がひどく、電源が止まって暑さで解凍しかかっていた鮪を二尾から三尾、だいたい200キログラムから400キログラムを吊り上げたときにバランスを崩し、あえなく船は右舷に横転したという。
八田はデッキに出ておりそのまま海中に放り出されたが、ほかの乗組員がどうなったのかは皆目わからないということだった。
八丈島警察署に届け出て沙汰待ちという形になり、参考人の八田を島に残して、治次が率いる船団は帰投したのだった。

日が落ちるころには、伊豆大島への風当たりも緩(ゆる)まり、一気に秋めくような北西の涼しい風が吹いた。
塚谷家の人々は、憔悴しきって家に帰ってきた。
その夜、ちよに陣痛がおとずれた。
「はうっ。来たぁ。痛いよぅ」姉の急変にふじが慌てる。
母親の佳代が「梅原せんせを呼んで!」とふじに命じた。
ふじは駆け足で、坂を下がり、また登って、梅原診療所に走り込んだ。
「せんせぇ!せんせぇ!」
するとすぐに、「なんじゃ、どうした?おお、おふじ」
「せんせ、早く!姉ちゃんが、産気づいて、苦しんどるんじゃ」
「わかった、すぐいくけぇ。おふじ、立木先生も呼んできてくれんか?切迫早産の可能性もあるから」
そうである。老体の梅原医師だけでは、ふじも心もとなかった。
まんがいいことに立木先生が内地から来られているのだった。ふじは、祐介のことも思いながら走った。
「姉ちゃんきばれぇ!」
ひっつめ髪をほどいたふじは、立木医師の別荘の坂を駆け登った。
先にふじをみとめたのは祐介だった。
「どうした?おふじ」
「姉ちゃんが、産気づいたんじゃ。祐介のお父さんにも来てもらうようにって梅原せんせが」
「わかった。すぐ父さんに」祐介は血相を変えて居間に飛び込んで父、春信にその旨を伝えた。
白衣をひっかけ、往診鞄を引っ張り出し、祐介の父は玄関に現れた。
「おふじさんだっけ、案内してください」
「父さん、ぼくが一緒に行こう。おふじは先に。追っかけるから」
「きっとよ」
そういって踵を返して、ふじは走り去っていった。
もうあたりはとっぷりと日が暮れていた。

ふじの家では、まるで戦場だった。
近所のアンコ衆も集まって、湯を沸かす者、敷布を用意する者、たらいだ、油紙だ、と騒ぎになっている。
男の入る余地などなかった。
春信は医師ということで下にも置かないもてなしだったが、祐介は一人、外に取り残された。
虫の舞う街灯の電球の下で、自分の影を見ながら石垣の毀れたところに腰かけていた。
すると…赤子の元気な泣き声が聞こえてきたではないか。
同時に「アンコ」たちの歓声が上がる。

祐介は、立ち上がった。そして満天の星がさんざめく夜空を見上げた。
想えば、せっかく伊豆大島に来て、東京では見られない、降るような星空を見ていなかったことに気づいた。
「祐介君」後ろから呼ばれた。ふじだった。
「生まれたようだね」「うん。男の子」「ついてたんだ」「そう、ちっさいのが」
祐介は自分のことのようにうれしくなった。
二人は、歓声の絶えない産屋を後に、夕やみに肩を組んで消えていった。

港には、放棄された船がいくつもあった。
竜骨と側板しか残っていない朽ちた木船があり、その中でむつみあう二人の影があった。
ほのかに防波堤の街灯の明かりが届くあたりで、真っ暗ではなかった。
祐介とふじが口を吸い合っていた。
ふじの単衣の合わせから、細い手を差し込む祐介だった。
その乳房は、打ち震え、ぎこちない男の動きにも反応した。
「おふじ、ぼくは、その、みんなが言う童貞なんだ。だから」
「おらだって、初めてサ」
「でも、りんさんが、おふじは知ってるから教えてもらえって」
「なんだって、そんなことをりんが言うずら?」
「おふじには、そういう相手がいたのかと思った」
「いないよぅ。やり方だって、聞いた話じゃ、祐介君のちんぽこを硬くして、おらの血の道に差し込むんだって」
「それくらい、ぼくだって知ってら」
「なら、いいでねか。祐介君にまかせるから。こったらこと、女の方から、し放題にできんもん」
そういうと、着物のひもを解いて体を開いた。
下には何もつけていなかった。
「硬くなってる?」
「少し…」
「触っていい?」
「うん」
ふじの手が祐介の股間に伸びる。
学生ズボンは下着と一緒に膝まで下ろされていて、ゆらゆらと立ち上がってくるところを、ふじの細い指が捕まえた。
初めて他人に触られる祐介は、全身がこわばるように硬くする。
「すごいね。こんなに硬くなって」
「股を開いてくれる?」祐介がふじに注文する。
小舟の中で、ふじは恥じらいもせず、祐介にゆだねた。
ぎしぎしと、材をきしませながら、祐介がふじの足の間に入り、指をその部分に這わせて入り口を確かめる。
「あふっ」
今度は、ふじが体をこわばらせた。
「痛いの?」「い、痛くないじぇ」
祐介の指先はとろとろと粘液ですべりだす。
生魚でも触っているような感じだった。
「入れてみるよ」
「…」
返事がなかったが、祐介はもう我慢の限界だった。
痛いほど勃起しているのだ。
自慰行為でなら、とっくに爆発させている状態だった。
亀頭が完全に剥かれ、包皮は後戻りできないほど後退している。
ぴちゃ…
唇のようなふじの器官に先端が当たる。
押せば入るものでもないらしい。
嫌われて、上に滑る分身。
「やん…」
ふじが快感に身をよじる。
もう一度…
ぐり…
亀頭が何かをくぐるような感じを受け、そのままふじの奥深くに進んだ。
もうそれは道なりにという形で、ふたりが一緒になった瞬間だった。
祐介がふじの上に重なって、ふじが再び唇をねだる。
小ぶりの乳房が、薄い祐介の胸板に押し付けられる。
若すぎるふたりは、こうやって体を重ね、快楽を貪ったのだった。
射精感が近づく祐介の脳裏に「妊娠」の二文字が浮かぶ。
このままふじの中に出せば、ふたりは夫婦(めおと)にならなくてはならない。
そしてふじは、ちよのように腹を大きくし、祐介の子を産むのだ。
医者の息子はそこまで考えた。
そこまで考えて、「おふじっ!」と叫んで引き抜いたのだった。
「ああん…」
祐介の精液は、ふじの腹の上に散った。
「ごめん、おふじ…」
「なんで、あやまる?」
「だって、中に出せなかった」
しばらく沈黙があって、
「それだけ、祐介君は大人だってことずら」
起き上がって、単衣をまとい、身支度をするふじだった。
「あ、拭かないと」「いいべ。祐介君の大事なものだじぇ」
祐介もズボンを履き、木船の上に立った。
そうして、もう一度唇を重ね、抱き合った。

「祐介君、もしお医者になって、まだおらのことを想ってくれていたなら、この島で開業してくんな」
「そうする。そのときは、おふじをお嫁にもらう」
「ははは。いちおう、うかがっとくべ」
明るくそう言って、辻で別れた。
父親の安否も不明なのに、祐介の前では気丈に振舞ったふじだった。
姉のちよが無事出産したこともあるのだろう。

祐介は、自分に問うた。
「ぼくは、あれで大人になったのだろうか?」
女とああいうことをするのには、生半可な気持ちではいけないのだ。
愛するということは、その人の人生を背負うことなのだ。
そして子供を成すということは、その子の人生も背負うことなのだ。

九月の秋の気配を感じる波浮港で、りんやふじらの「アンコ」さんに別れを告げた。
第二金剛丸を遭難させた嵐は「キティ」と名付けられ本土にも甚大な被害をもたらした。
祐介も新学期に間に合わなくなってしまったが、祐介は胸を張ってあの唐獅子丸に乗り、元町港に戻ってきたのだった。
その唐獅子丸には、生まれたばかりの男の子を抱いたちよも同船していた。
ちよの旦那さんの家が元町からほど近い牧場だったからだ。

「ぼくは、ぜったいに医者になるよ」
そう誓ったのは、帰りの連絡船の船上でだった。
噴煙をたななびかせている三原山に向かって、そう誓った。
「そして、必ず大島に戻ってくるよ」

大島は青くかすみ、連絡船の航跡が白く伸びていた。

風は汐風 御神火おろし
島の娘たちゃ 出船のときにゃ
船のとも綱 ヤレホンニサ 泣いて解く

(『波浮の港』作詞:野口雨情、作曲:中山晋平)

この翌年、朝鮮戦争が勃発し、小規模な三原山の噴火があった。

(おしまい)