国の施策や制度上では「健常者」や「障害者」の分類は必要なのかもしれないが、ほんとうに「健常者」などいるのだろうか?

私は最近、自分の体が健常だと思っていたがそれは思い上がりで、かなりできないことがあることに気づいた。
長くご無沙汰していたアマチュア無線での経験で、モールスが打てない、聞き取れなくなっている。
モールス通信の世界では私は立派な障害者である。
まったく会話ができないのだから。
ストレートキーで「手崩れ」を起こしたから、パドルで半自動で手送信するにしても間違う。手が思い通りに動かない。
練習あるのみだとは思うが、わたしにはそれが「リハビリ」に思えてしまうのだ。
「リハビリ」の道のりは長い。誰だってそうだ。そして「完璧」には程遠い達成感だろう。障害のある人なら経験することだ。

モールスの受信は脳の言語野を障害された人に近いかもしれない。
言葉が流れてしまって、意味をなさないのだ。

はからずも、モールスの世界で私は障害者の体験をすることができた。
「遅いモールス」は「健常なオペレータ」からバカにされ、煙たがられる。
訂正符号ばかり送信すれば、もう相手にされない。
趣味の世界だから仕方がないけれど、そんなことってほかにもあるんじゃないかな?

そろばんも電卓も「遅い人」は「とろいヤツ」だと言われるし、反対に暗算が早いと尊敬される。
字が汚いだけで人格まで疑われ、食べ方が汚いから育ちをさげすまれ、差別される材料にことかかない。

良く考えてみてほしい、私たちは「健常」だろうか?
私のまわりには楽器を使う人が多いのだが、彼らは、私のように楽器を扱えない者には「なんか(できるものが)あるでしょう?」と簡単に言うが、オタマジャクシも読めないのに答えようがない。

単に知識だけの問題で、努力すればできる「自己責任」の問題だと言われるのがおちだ。

いや、たしかにそうかもしれない。
けれど、できないものはできないのだ。
それを「障害」と片付けては「本当の障害者」に失礼なのだろうか?

年齢を重ねるとできないことが増えてくるものだ。
体が自由に動かないし、目も見えづらい。
やはり私は「健常」ではないと思う。(だからと言って助けてくれといっているわけではない)

結論:私の「障害」は「甘え」に過ぎない。