「この人は世界で五本の指が入る…いや、もとい、五本の指に入るテクニシャンでございます」
このように日本語では助詞、女子ではないですよ、助詞の使い方を間違えるととんでもないことになってしまう。
「五本の指が入るくらいなら、ガバガバじゃござんせんか?」
「それもテクニシャンだそうで」
「せめて三本ぐらいにしてくれんかな」
「えーっ、あたし二本が精いっぱいよぉ」
「うそこけ!」
「バナナ切れました」
「バナナ入れました」
「冷やし中華始めました」
「合わせて一本!」
「合わせ技がみごとに決まりました」
「五本から二本引くと?わからん?こうやって指をそろえていきますよぉ。はい、入りましたぁ、ここから二本だけ抜きますって、でけませんなぁ。え?中で指を曲げないでって?ごちゃごちゃうるさい人やな、もぉ」

「女性の貧乳とかけて、やくざの出入りとときます」
「そのこころは?」
「すったもんだ(吸った、揉んだ)で大きくなります」
「おおっ、コンドーム二枚。ヤマダ君」
「それって、チンポでもよくね?」
「そだねー」

「バイアグラ百錠とかけまして、日本酒とときます」
「そのこころは?」
「一生(一升)ビンビン」
「ヤマダ君、コンドームを頭から、かぶせちゃいなさい」


「ニシン御殿とかけまして、名器とときます」
「そのこころは?」
「御殿は、かずのこ天井」
「うまい。かずのこはうまい」

私は、言葉遊びの「オナニー」もやる。
もちろん、ここに挙げた小話は私のオリジナルではないものも含まれている。
古今東西の落語や漫才から頂いたものを加工したものだ。
※ここでの「東西」は東日本・西日本という狭い意味です。

病人や障がい者が家族にいると、気が滅入るのです。
彼らは、確かに病気や障害と戦っている。
尊い存在なのだと、わかってはいる。
その反面、彼らは一様に「わがまま」だ。
自分ができないことは、なんでもやってもらえると思っている。
秘めたる感謝の気持ちはあるのだろうけれど、家族という手前、いちいちそんなそぶりは見せず、ますます、「あれして、これして、それはいや」とくる。
頼まれて買ってきたものでも「それじゃなくって、もう一種類のほう」とにべもなく言うのだった。
そして、買ってきたものの欠点を、くどくどくど…と述べ立てる。
私の母もそうだったし、父も晩年はひどかった。
そうして勝手に逝ってしまった。
私が好きだった叔父は事故で即死だったから、そんな思い出はないけれど。

そして夫である。
この人が、半身まひになってもう八年以上になる。
だんだん、口も不自由になり、気も短くなり、利発だった往年の面影もなく、私より九つも年上だから仕方のないこともあるのだけれど、私が疲弊してしまっている。

そんなとき、言葉のオナニーで遊ぶ。
今は動画でいろんなお笑いや落語が見られ、つかの間の憩いを得られている。
下ネタは好きで、ウィットを感じるのだ。
下ネタが嫌いな人は、眉をひそめるのだろうけれど。
噺家の下ネタは、良く練られていて、うならせられる。
AVは飽きてしまった。
AVでも、もっと文化的に格調高いものは作られないのだろうか?
昔のストリップ劇場は芸術性があったらしい。
私は観たことがないので、よく知らないが。
日活ロマンポルノだって、香しい、そこはかとない人間の営みが感じられて、コミカルな中にも哀愁が感じられるものが多かったという御仁もいらっしゃる。
そう「ペーソス」なんだよね。
文学にはペーソスが必要なんだと、わたくしメは思うのであります。