明治三十九年の新年、屠蘇気分で、おれは兄と岩船神社に初詣にでかけた。

元日は曇天で初日の出は拝めなくて残念だったなどと、とりとめもない会話を交わしながら兄弟はうららかな二日の昼下がりを歩いた。

境内に至る石畳は、両側に出店が並び、お年玉をもらった子供たちで賑わっている。
「ちかごろは、あれだな、凧揚げなどはしないみたいだな」と、兄。
「そうでもないさ。亀井川の河原じゃ、結構な見ものだぜ」
「そうかね」
アイリッシュウールの襟巻が口に当たり、こもった声で兄が答える。
お互い、仕立て直したウール地の和装で出てきたもんだから、どうも身の丈に合っていないようなぎこちなさがあった。
路地で独楽を回す少年らを横目に、鳥居をくぐる。
ふと、小雪に似た少女が男と並んで歩いているのを見とめた。
「あ…」
確かに小雪だった。
薄い化粧を帯びた頬、濡れたような唇、目の覚めるような浅黄色の振袖と、毛足の長いショールというのだろうか?
髪をやや庇(ひさし)に結って、かんざしは桜か何か、最近流行りの「ベークライト」というもので出来ているものに違いない。
それにしても隣の男はだれだ?
あんなに屈託なく笑う小雪がうらめしかった。
「どうした宗介」
兄が、怪訝そうにおれを見ている。
「あ、なんでもない」
「ははあ、あの子か?知り合いかね」
「いや、知らない」
「垢ぬけした、きれいな子だ」
「行こう」
おれは、兄を促して、賽銭箱のほうへ向かった。

家に帰ってからも、おれは小雪のことが気になっていた。
遊女であるから、客はおれだけではないことくらい承知していた。
もっと小雪に手厚くしていれば、いまごろ、あいつの隣におれがいたはずなのだ。
おれは、自分の勝手を棚に上げて、後悔していた。
「陽炎はいつから開くのだろうか」
陽炎の初出が気になって仕方がなかった。
開けば、一番乗りにおれは馳せ参じるのだ。
夕飯の雑煮を食いながらも、おれはいらいらしていた。
餅が切れないのも、腹立たしかった。
「搗きすぎだ。この餅」
餅に八つ当たりする始末だった。
「そうですかね」と、女中のおふじが、気のない返事をする。
おれは面白くないので、日日新聞を開いた。
立憲政友会の西園寺公望総裁が桂太郎の後を継いで七日にも内閣総理になるらしいことが大々的に書かれていた。
桂内閣は昨年末に総辞職したのだった。
思えば、日露戦争の立役者だった桂太郎総理である。
首尾よく勝利に終えた日本帝国だったが、桂総理と西園寺侯爵の間には後継問題の密約があったらしい。
そのようなことが新聞に書いてあった。
おれにとっては、全くどうでもいいことだった。
「二百三高地」で散った先輩がいた。
戦争などまっぴらだ。
しかし今年は、おれも徴兵検査を受けねばならないのだった。
帝大に入れば免除にもなろうが、おれの頭じゃ無理だった。
兄は、昔なら家長を継ぐ者として兵役免除になったはずだが、今のご時世はそれもまかりならんということだったのに、父親が立憲政友会議員の「かばん持ち」だったことから手心が加えられて「乙種合格」で兵役を免除されたのだった。
父はこのために費(つい)えがかさんだとも聞く。
次男のおれには、そんな小細工はしてもらえないだろう。
兄に比べて、おれはそうとうな放蕩息子に違いないからだ。

おれは、軍人の顏を見るととても嫌な気分になる。
あの独特の口の利き方や、サーベルのちゃらちゃらした音、茶筒につばをつけたような帽子…

三日、悪友の内山長次郎が新年のあいさつに来た。
「やあ、どうだい?今年は」
「どうもこうもないさね」おれは不機嫌そうに答えた。
おふじが酒の支度をしてくれる。
「内山様は、鰤は召し上がられますか?」と、おふじ。
「ああ、いただくよ」
「あ、おふじ、ウィスキーがあったろ。兄さんの」
「しかられますよ」
「いいんだよ。持ってきな」

酒が回ってくると、お互い饒舌になる。
「陽炎には通い詰めかい?」長次郎がにやにやして訊いてくる。
「そんなには行きゃしねぇよ。たまにだよ」
「茜(あかね)って娘がいるだろ?あれがおれにぞっこんでさ」
「なんだ、お前も行ってんじゃねぇか」
おれは敷島に火をつけるために火鉢に顔を寄せた。
「ときに、陽炎はいつからやってんだ?」
「明日には姫初め乱痴気パァチィってのをやるらしい」
「なんだいパァチィってのは」
「西洋の風習で、まあ祭みたいなもんだろう」
「へえ。おもしろそうだ」
「鹿鳴館みたいに、仮装するらしいぜ」
「じゃ、洋装なのかい?」
「それもあるだろう」
小雪の洋装姿を見てみたいとおれは思った。

(つづくんかい!)