吉田茂(1878~1967)は、戦後間もない日本の内閣総理大臣を勤め、GHQ統治下での日本の新しい船出を舵取りした人物として教科書にも載っている。
外務畑で中国やイギリスに駐在経験も豊富で、大正期から昭和に至るまでの日本の外交を担ったといっても言い過ぎではない。
また、血筋も申し分なく、実業家吉田健三夫妻に養子に出され、以後、吉田家の跡取り息子として学業に励むし、その間に義父健三氏が早世してしまうなどの不幸に見舞われるものの、義父の莫大な遺産を独り占めする立場になったことは、その後の彼の生き方に大いに貢献した。
吉田茂の実父と言う人は土佐藩の出身で、東京に出て板垣退助の腹心を勤めた竹内綱(たけのうちつな)とされる。
つまり板垣の自由民権運動に賛同して、活躍していた志士だった。
竹内は石炭で稼ぎ、実業の道で身を立てる。
その間に、これまた実業家の吉田健三と知己となり、竹内が妾(めかけ)を孕ませたことがあって、子のなかった吉田夫妻に、その子が「男の子」なら養子にやるという約束をしたらしい。
吉田茂も出自について「回想録」にも多くを語っていないので、詳しいことはわからない。

吉田茂が、尊皇派や勤皇派の考えを持ったのも出自と無関係ではないだろう。
それゆえ、慶應義塾を中退して、東京物理学校に移るもやはり合わなかったのか途中でやめてしまい、学習院の高等科からやり直して、同大学に進む道を選んだ。
学習院は皇室子弟の学府として創立された学校だから、吉田も、いきおい皇族方とお近づきになるわけだ。
そこでますます尊皇思想に傾斜し、かつ、世界に目を向ける外交官を目指したいという気持ちが明確になっていったのだろう。
日本の皇族こそ、世界に冠たる思想や知識を身に着けた方々で構成され、恥じることない日本の象徴として、吉田茂の中で結実したものと思われる。
皇室外交というものを、吉田は学習院で感じ取っていたのかもしれない。

吉田茂の妻、雪子の父は内閣総理も外務大臣も宮内大臣も務めた牧野伸顕だった。
さらに、義父吉田健三が東京日日新聞の経営に参画していたこともあって、井上馨の信頼も勝ち取っていたらしい。
このように、若い吉田茂を取り巻く人脈は豊富だった。
のちに彼の上司になる幣原喜重郎外相も、終戦処理と戦後日本の復興の立役者だった。

吉田が、天皇家を崇拝するようになった事件は、パリ講和会議に随行して帰朝し、その後、すぐに駐英一等書記官に任官したことと無関係ではない。
実はこの任官は、吉田茂自身が、岳父牧野伸顕に猟官を懇請したからだと吐露している。
吉田茂と言う人物は、かくも華々しい人脈を持ちながら、それを活用して成り上がることを潔しとしなかった風がある。
その彼が、意に反して「猟官」の手を使ったのである。
それほど駐英外交官の職が欲しかった。

晴れて駐英外交官となった最初の仕事が、皇太子裕仁(のちの昭和天皇)殿下がヨーロッパ巡遊に出られた際の、英国入りを補佐したことだろう。
皇太子殿下は、イギリス「ヴィッカース社」製の戦艦「香取」と「鹿島」を御召し艦として伴い、大航海に出られたのである。
※「香取」と「鹿島」はその後、退役し、海軍の新しい練習艦にその名が受け継がれることになる。

最初、英領のジブラルタルに皇太子殿下が立ち寄られるということで、吉田は先にジブラルタルに入って、英国に入られる際の洋装の仕立てを承るにあたり、殿下の採寸を仰せつかったのだった。
この名誉に浴したことから、吉田茂の皇太子への敬意が育まれ、天皇に即位されてのちも、足下で仕事をすることを誉としたのである。

日本とイギリスは帝国海軍創設や日英同盟でより親密であった。
第一次世界大戦ののち、パリ講和会議でヴェルサイユ条約も締結されたが、軍縮問題は棚上げされ、のちのワシントン軍縮会議に持ち越されることになる。
日本の軍事力の増強は目覚ましく、英米諸国には脅威に映っており、アメリカは露骨に、日英の親密な関係を嫌悪した。
イギリスも第一次世界大戦に日本が参戦意欲を強く持っていたことに懸念を隠せなかった。
飼い犬に手を嚙まれる…そんな気がしたイギリスだった。

ワシントン条約で日英同盟破棄が成立し、両国の関係が冷えていったころに、皇太子殿下の巡遊だったので、ひとしお吉田茂には感慨深いものだったのだろう。
しかし吉田の駐英期間は二年足らずだったようで、すぐに中国の天津総領事、幣原外相の願いで奉天総領事となかなか日本に帰してもらえない時期があった。

ところで、日本の仮想敵国は、かねてよりアメリカだった…とよく言われる。
太平洋戦争は、その結実として捉えられる。
石原莞爾の「世界最終戦争」構想は、このアメリカ覇権主義との対峙を予見してのことだった。

吉田茂が、太平洋戦争を早期終結させるために奔走し、くじかれ、東條内閣が総辞職してから、敗戦処理に尽力したものの、ポツダム宣言受諾をなかなか示せず、天皇の意向に反して終結を長引かせてしまい、沖縄戦で多くの島民を犠牲にし、加えて広島と長崎に原子爆弾を落とされるという不幸を招いてしまったことが痛恨の極みだったと思う。
陸軍幹部の根強い「本土決戦主義」が吉田や鈴木貫太郎首相らを阻んだのだった。
東條英機は、狂人の如く私怨に燃え、自分を貶めた人間への復讐に余念がなかったという。
彼に勝つための理念はなく、まつろわぬ者への恨みごとしかなかった。

吉田茂はもっと先を見据えていたのである。
それは「天皇制」の戦後だった。
このまま「負ける」と、連合国側に「天皇」の戦争責任が追及され、聡明な天皇陛下が日本から奪い去られる…
それはなんとしても避けたい。
天皇陛下「裕仁」に近かった吉田茂の偽らざる気持ちだった。
「皇太子の時から側に感じていた陛下を、お守りしたい」

戦後、新しい憲法が制定され、吉田茂も幣原喜重郎も参画した。
そこに国民統合の象徴として天皇を置くと規定され、天皇の身分は保証された。
そして何よりも、陛下への戦争責任は問われなかったのである。
吉田茂の思いが連合国側に伝わったのである。

ゆえに、彼は新憲法に誇りを持ち、これを改めることなど、今後一切ないと考えていた。
「硬性憲法」の完成である。
安倍晋三首相が自身の手で改憲に踏み切りたいと、毎度口にしているが、吉田茂の気持ちを考えたうえでのことだろうか?
私には、はなはだ疑問なのである。