日本が太平洋戦争をおっぱじめ、鬼畜米英と国民を鼓舞していたのはミッドウェー敗退のあとかもしれない。
それだけ「大誤算」をしでかしたミッドウェー海戦だった。
すると昭和十六年の12月8日から翌十七年の6月のアタマまでの6ヶ月しか日本軍は優勢に戦っていなかったことになる。
それは、山本五十六や米内光政ら、海軍のトップが最初から予測していたことでもあった。
山本は北太平洋の制海権を確保するために、ミッドウェー攻略とアリューシャン列島の奪取は対米戦において必須と考えており、また、オーストラリアとアメリカの連携にくさびを打ち込む、珊瑚海方面への第四艦隊の投入も当然の戦略だった。

ガダルカナル撤退、山本五十六長官の戦死と、アメリカ軍の猛反撃が始まる昭和十八年、アッツ島の日本軍守備隊が玉砕した。
北太平洋の制海権および制空権はもはや日本にはなかった。
北部太平洋の最後の砦、キスカ島も放棄せざるを得ず、この撤退は一人の犠牲者も出さずに日本軍は成し得て、後々の語り草になるけれども、戦況が好転することにはならなかった。
九月には同盟国のイタリアが降伏し、東條英機総理は「今後、イタリアは敵国とみなす」と唾棄した。
昭和十九年2月24日にマーシャル諸島のクェゼリン島が米軍に落とされたときでも東條は、
「物は考えようだ。むしろ敵の背後にわが基地があると考えれば良い。機を見て挟撃するのじゃ」と、うそぶいたのである。
戦況を常に楽観視するのが東條英機の特徴だと保阪正康氏が書いている。
このような東條の物言いはそのまま「大本営発表」となって国民を瞞着し続けたのだった。
この年の6月「あ号作戦」が失敗に終わり、日本軍はサイパン島を失うことになった。
これには、重臣たちも度を失い、涼しい顔をしている東條にこのまま政府を任せてはおけないのではと、遅まきながら気づくのである。
それでも東條は「恐るるに足らぬ」と言ってのけたのだった。
そして閣僚たちを前に「サイパン陥落は天の啓示だ。我々の真剣さが足りないから天が叱咤激励しているのだ。もっと励まねばならぬということだ」とまで言うのだった。
東條英機の精神論がここぞとばかりに奔出したのである。
保阪氏は「東條にとっては、戦争に勝つこと自体が目的であり、それが自分の責任であり、そのために国民にどれだけの犠牲を強いてもかまわない、というのがその戦争観であった。まさに亡国の思想にとり憑かれ、判断力を失っていたというべきである。東條の周辺の軍人たちはその異様さに気づいていなかった」と『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代文庫)に書いている。
裕仁(昭和天皇)やその側近らは、このまま東條に任せておいたら、もう日本は立ち直れないという不安にかられていた。
はやく戦争を止める方向にもっていかねばならないことに、気づき始めていたのである。
すでに昨年(昭和十八年)末にカイロで連合国側の会議がもたれ、日本への敗戦処理が取りざたされていたのである(カイロ宣言採択)。
つまり後の「ポツダム宣言」の草案がここで話し合われていたのだった。
天皇を中心とした「終戦派」のヴィジョンは「和平交渉」である。
今更遅いという感もないではないが、とにかく、このままでは「一億総玉砕」、「本土決戦」と口走る東條内閣と陸軍首脳によって日本は最悪の状況に陥ることが予想された。
そして「すべては天皇陛下のために」という東條英機の物言いに天皇裕仁は、背筋が寒くなる思いだった。
かつて斎藤実内閣で海相を務め、五・一五事件を収拾し、斎藤内閣瓦解後に首相を拝命した経験のある岡田啓介海軍大将が終戦処理にむけて動いていた。
岡田大将は、ミッドウェー海戦の敗退の時点で日本に勝ち目はないと感じていて、周囲にもそのことを漏らしていたから、東條に耳に入らないわけがなかった。
東條は岡田大将を憲兵らに見張らせて、その行動を監視したのである。
ミッドウェー海戦を機に対米和平交渉に持ち込もうとしていた人物はほかにもいて、戦後の首相になる吉田茂らがそうだった。
ただ、ミッドウェー海戦が予想外の展開になってしまい、吉田の思いも潰えてしまう。
陸軍急進派の中には二・二六事件のようにクーデターで和平活動を阻止しようという者もでてきていた。
保阪氏の説明によれば、岡田啓介が教育長の高木惣吉と謀って嶋田繁太郎海相を更迭させようと動いたらしい。
この活動は高松宮、鈴木貫太郎、伏見宮博恭王にも広がった。
岡田大将はマリアナ沖海戦の大敗につき嶋田海相の責任を追及し、辞任を迫った。
この東條内閣切り崩し工作は、東條総理の機嫌を著しく損ね、東條が岡田を呼びつけて叱責するも、岡田はひるまず東條に反駁したようだ。
東條は側近のイエスマンを使って脅迫まがいの和平派攻撃をあからさまにおこなうようになる。
しかし岡田の肩を持つ人物は後を絶たず、近衛文麿、米内光政、平沼騏一郎らも合流したのだった。
「サイパン奪回」、「嶋田更迭」は東條内閣のもっとも触れられてほしくない要求だった。
東條は卑怯にも、自分の口からではなく、側近の次官、富永恭次に和平派重臣たちに次のように言わせた。
「東條を倒せば敗戦につながり、その責任はあなたたちにある」と。
こんなことで和平派がひきさがるわけがなかった。
それほど和平派のうねりが大きくなっていたのである。
嶋田海相も、もはやこのまま東條内閣についてはいけないと悟って自ら辞意を表明したのだった。
東條英機総理は、四面楚歌の状況に陥り、自ら天皇陛下に泣きつこうとしたが…天皇の気持ちは和平にむかっていた。
陛下の側近、木戸幸一をして拝謁を叶えるも、陛下は東條に辞意を促すのではなく、組閣に注文を付けた。
東條内閣の商工大臣岸信介を辞めさせ、米内光政海軍大将を入閣させるという案を東條は奏上し約束した。
しかし、岸信介は「辞める」とは言わなかった…木戸幸一が「辞めるな」と説得していたのである。
東條は進退窮まってしまった。天皇との約束をこのままでは果たせないからだ。
岸信介は戦後、総理大臣になる人物であり、今の安倍晋三総理の祖父でもある。
今も「東條を倒して、日本を救った功労者は岸信介だ」という人は少なくない。
保阪氏はそのことについて疑義を持っているようだ。
どうやら木戸幸一のスタンドプレーだったようだ。
東條の秘書を務めていた赤松貞雄氏によれば、赤松氏が木戸に呼ばれて「嶋田海相は海軍でも評判が悪いから、君から辞めるように言ってくれないか」と耳打ちされたのだという。
赤松氏としては「私は秘書に過ぎませんから、そのようなことを申せません」と、当然に断りを入れた。
赤松氏が戻ってそのことを東條に報告したら「馬鹿野郎!いま、嶋田が海軍大臣を辞めたいと言ってきたから、弱音を吐かずにがんばれと言って聞かせたところだ」と激しく木戸幸一のことを罵ったという。
木戸幸一という天皇の側近(内大臣)は、木戸孝允(桂小五郎)の血筋の男で、天皇陛下に東條英機を総理に推した張本人である。
近衛文麿総理が総辞職し、政治的混乱を避けるために、木戸幸一はアメリカとの戦争も辞さないという東條を敢えて総理の要職に推したのは、総理にでもなれば、いささかでもそのような急進的な態度を収めるであろうと判断したからであろう。
この点では、陛下も同意されたようで、だから東條英機を足下に呼んで「大命降下」を与えたのではなかったか?
そうであれば、木戸幸一は重大な戦争責任を負っており、また、ここにきて東條英機が日本を危うくする総理であることを遅まきながら気づき、なんとかこの男を政界から引きずりおろすことはできまいか?と焦ったのだろう。
木戸は極東軍事裁判でA級戦犯として終身刑を言い渡されたのだった。
彼は文民だったために死刑をまぬかれたわけだが、のちに病気のため仮釈放され87歳まで生きた。

岸信介は東條に乞われて、商工大臣として入閣した経緯がある。
とたんに岸が、燃料庁の汚職事件で責任を問われ、辞任寸前まで追い込まれたが、東條がそれを助けたことがあったと赤松秘書は述懐している。
なのに、此度の岸への東條の辞任要請が受け入れられないことに、不信感をあらわにした。
東條は岸に対し、「恩を仇で返すのか?」そういう気持ちだったのに違いない。
実は、東條内閣倒閣のために岸と木戸がしっかりタッグを組んでいたわけで、岸の造反は東條に対する包囲網の一つに過ぎなかった。
こうして四面楚歌となった東條総理は総辞職の道を選ぶのだった。

いずれにせよ、時機を逸していたことは否めまい。
もう、日本は東條以上に、進退窮まっていたのだった。
ヤルタ会談のあと、昭和十九年の四月に突如、ルーズベルト米大統領が急逝する。
後を継いだトルーマン大統領は、ポツダム宣言をなかなか受諾しない日本に業を煮やし、東京大空襲、沖縄戦を敢行し、ついに8月、広島と長崎に原子爆弾を投下してしまう。
8月15日まで日本政府は、もつれにもつれて、やっと玉音放送にこぎつけ「終戦」を国民に宣言したのだった。
最後まで日本政府は「敗戦」という言葉を使わなかった。
よって今もなお、日本は「負けていない」と言い続ける人もいるのだ。
反対に「永続敗戦論」を世に問う人もいるが…

東條英機は、極東軍事裁判でA級戦犯として死刑判決を受け、巣鴨プリズンで絞首刑となった。
戦争は日本人に何を残したのだろう?
太平洋戦争と日中戦争があったから今があるというロマンチックな言い方は、私は嫌いだ。
たくさんの尊い犠牲の上に今があると言いたいのだろうが、回避できた戦争を、あえてやってしまい、反省もないようでは、将来は知れている。
また同じ過ちを繰り返すのが関の山だろう。

東條英機を一人、絞首刑にしたところで、何も変わらないのである。