劉暁波(リュウ・シャオ・ポー)さんが、中国の病院で収監されたまま病死した。

天安門事件を主導し、中国の民主化を扇動し、ノーベル平和賞を受け、それがために中国共産党に疎まれ、反逆者として牢につながれた人だ。


非暴力を唱え、最期まで誰をも恨まず、息絶えたそうだ。
彼の主義主張はマハトマ・ガンジーに重なる。


「憎しみの連鎖」を絶つには、相手を敬い、理解し、異なる考え方を受け入れる度量の大きさが必要だと、劉氏は説く。

このことは、こんにちの我々が陥りやすい、ヘイト感情や、愛国主義、保護主義、排他主義への警鐘だ。

従軍慰安婦の「少女像」を韓国の日本大使館前に置かれたとしても、相手の気持ちに立てば、少なくとも暴力や暴言で対処することはできないはずだ。

相手を「わからずや」と糾弾するのは簡単だ。
しかしそれでは「憎しみの連鎖」は続くばかりだ。


とはいえ、中国共産党のかたくなな、いや神経質な劉氏への弾圧は、かれらの妄信する「共産主義」がいかに誤った思想であるかを裏付けている。
もはや、共産主義では政治を行うことができないでいるのに。
習近平らは、苦しみもがいて、共産主義の亡霊にとりつかれているのだ。

あたしはマルクス主義の誤りは、富の再分配にあるのではなく、その方法において、他人を理解するという考えを持たなかったことにあると思っている。
為政者や富者がすべて悪人で、労働者階級が善人のようなステレオタイプで見ることが間違いのもとだと思うのだ。
これでは労働者階級はいつまでたっても、固定された階級であり、労働者が金持ちになることは許されない。
格差の固定化をもののみごとにやってのけたのは共産主義国家だったのではないか。

自由主義経済がやはり人の営みとして基本であり、人には幸福追求権があまねく存在するのであり、快楽を求める権利があるのである。

あたしは左翼思想に浸っていたが、その欠点には早くから気づいていた。
民青同盟とたもとを分かったのは、そのことがどうにも納得できないからだった。

マルクスの『共産党宣言』、エンゲルスの『空想より科学へ』をひもとくとき、どうしても高揚感で目が曇りがちになるのだ。
彼らの揚々たる宣言は、確かに正しそうに見える。
「正論」だと言ってもいいくらいだ。
しかしそれは思想でしかなく、「科学的」ではあっても科学ではないし、無論、事実をゆがめているのだ。

もっと言えば「虚妄」である。
中国や北朝鮮がそうであるように。

それにしても中国共産党、習近平主席は、劉暁波氏をなんでそんなに恐れる?
ネットも遮断し、国外からのニュースも消し、中国国民にことさら知られないように細心の注意を払っている。
もう「天安門事件」はこりごりだと言わんばかりだ。
中国の屋台骨は腐っているが、経済は順調で、官僚を食わせ、共産党幹部を養うには十分だから、この既得権を奪われたくないのだろう。
そこにはマルクスの思想などこれっぽっちも残っていない。
毛沢東主義だってどうだろうか?

あたしはだからといって、軍国主義や愛国主義、右翼思想に与しない。
左派であっても、共産主義者ではないのだ。