アニメ映画『この世界の片隅に』の主人公「浦野(北條)すず」の声を担当した「のん」の語り口が頭を離れない。
それほど、「のん」の広島弁の、やさしい中に凛とした、女の色気も感じられる表情豊かな語り口が、心地よく「すず」の声に、はまっていた。
最初、私は、この声が「大竹しのぶ」だと勘違いしていたくらいだった。
大竹さんの語り口も、表情豊かで色気のある声色で好きだったから。

NHKの朝ドラ『あまちゃん』で天野アキ役でお茶の間の人気女優になった能年玲奈(のうねんれな)が後年、どういう経緯だったのか私は不案内だが「のん」と芸名を変えて芸能活動をしているらしい。

宮崎アニメと比較される本作だが、もっとも違うところを挙げよと言われれば、「冒険」や「活劇」がないところだろうか?
どちらかと言えば、それこそNHKの「朝ドラ」的風景で舞台が作られ、人物の喜怒哀楽が語られる。
キャラクターは高畑勲風だし、「宮崎組」に思えなくもない。
もちろん監督の片渕須直氏は高畑氏と関係が深かったらしいが。
原作者のこうの史代さんの画風がすでに「宮崎風」なのだからそれでいいのだ。
実際、こういうやさしい画風で悲惨な戦争を描かれるほうが、心にグッとくるものだ。
ごく普通の人々の生活が、だんだん戦争によってゆがめられていく。
それは、音もたてずに近づいていて、気が付いた時には血みどろになっている自分がいる。
そしてそこから一歩も動くことができない。

戦争に限らない。自然災害で人々はどん底に、突然落とし込められることは、つい最近でもあったではないか?
わけのわからない殺人事件に巻き込まれたり、車の暴走で命を落としたり、不運の種は尽きない。
子供は生まれながらにして、精神を病んだ親の虐待の慰み者になって、ぼろくずのように殺されていく。

私は、人が怖い。
正直なところ、何が怖いと言って、その人が何を考え、表面は取り繕っているが、内心に潜む「鬼」の部分がいつ出現するのかを思うと、恐ろしくて、面と向かって話をするのも億劫になる。

そんなことよりも『この世界の片隅に』に戻ってみよう。
北條周作とすず、水原哲の三角関係。
周作とすずの初夜、妊娠を疑わせるシーンがあったが、彼らには子供ができなかった。
※周作の姉、径子がすずに「はい、二人分」と言って大盛りのご飯を渡すシーンがあったはずだ。
周作はすずが妊娠していると思っていたから、突然現れたすずの幼馴染の水原哲に一晩、すずを与えたのではなかったか?これは、私の勝手な推測に過ぎないが…
もし、すずと哲に間違いがあっても、すずの子は自分の子であることを周作は信じ切っていたからだ。

径子は、モガと呼ばれる「飛んでる女」であり、その奔放な生き方は破綻する。
だから、北條家に出戻ってくるのだった。
径子は時計屋の夫と結婚し、男の子(久夫)と女の子(晴美)を授かるが、長男は夫の家にとられ、結局、径子と晴美が出戻ってきたのだった。
晴美が、幼い女の子なのに軍艦に異常に詳しいのは兄、久夫が教えたからだというエピソードが加えられている。

径子は、すずの小姑(こじゅうと)に当たり、田舎者で鈍く見えるすずに手厳しい。
こういう登場人物が、物語をひきしめている。
周作の両親が、この時代にしてはインテリで、旧弊な人物ではないところも救いがあった。

忘れがちだが、すずの兄と妹の存在も大事だ。
すずには兄、要一がいて、実直で勤勉な兄は、甘えん坊のすずを叱ってばかりいた。
だからすずの頭の中の兄は「鬼いちゃん」と呼ばれる怪物になっている。
要一も志願兵になって戦地に赴き、戦死の知らせを受けるが、帰ってきたのは骨壺に入った小石だけだった。
遺骨も遺髪もないのに兄の死を受け入れられないすずやすみ、彼女らの両親がいた。
そして、妹のすみちゃんが、被曝してしまうという悲劇。
核兵器の恐ろしさを、まだ知らない被曝者たち。
核は、静かに人を殺していく…
命を取り留めたとしても、一生治らない苦痛を味わわねばならない不憫さ。

この世界の片隅で懸命に根を張り、花を咲かせ、果実を実らせるように生きている人々を切り取った物語は、世界中の人々に共感を与えたようだ。