町の交差点の信号機のある横断歩道には、必ず「視覚障害者用音響式信号機」が備わっている。
「とおりゃんせ」のメロディと「カッコウ」の鳴き声(またはヒヨコの鳴き声)を併用して、渡る方角を視覚障碍者に知らせるようになっているものだ。

ところが最近、その信号機の設置場所の住人が「騒音」だとして時限式で鳴らすように制限を加えざるを得なくなっているらしい。
現に、夜間は音を止めているという。
視覚障害者にとって、夜も昼もないわけだが、さすがに夜間は全体の人通りも少なくなり、これらの音は騒音意外の何ものでもない。
信号付近の住人は、どこへも逃げることができず、日がな一日この音を聞かされているのである。

同様な苦情の声を上げた「踏切遮断機」の近所の住人たちがいて、音のデシベル(大きさ)を最初は大きく、後に下げて小さくする方法などがとられている。これは機器が電子音になったので容易になったものだが、法律上、音を完全に消すことはできないらしい。
ならば、視覚障害者用音響式信号機も「音は消せない」のではなかろうかと、思いきや、そうではないらしいのだ。
法律が替えられたのか、だとすれば、踏切事故と比較衡量した場合、信号機のある横断歩道での視覚障害者が受ける損害とは事の重大性が異なるとでもいうことなのか、「音は止めてもよい」ことになっているのだろう。

ここで「バリアフリー」の視点から考えてみたい。
視覚障害者は、その程度や、障害になってからの経験にも左右されるが、音に敏感であるし、音が頼りの生活を送っておられる。
そうすると、交通量の多い道路を横断するということはかなりのリスクを伴う行為なのだということは容易にわかる。
信号機のない場所での、無謀な横断をする視覚障害者はほとんどいないだろう。
彼らは信号機の音を頼りに、白杖を携えて渡るのである。

視覚障害者の立場から「バリアフリー」を考えると、音響式信号機は不可欠であり、時間を決めて音を消すなどということは、視覚障害者の自由な行動を制限することにもなりかねない。

いっぽうで、世の中は障害者だけが生きているわけではない、圧倒的に健常者のほうが多く生活をしている。
普通なら健常者の方が、視覚障害者のために不自由を受け入れるべきではないのかというのが世論だろう。
「たかが信号機の音ではないか、我慢してやれよ」と、信号機のそばにお住まいでない大多数の人は言うだろう。

それでも立場を変えて、信号機の目の前に家がある人の気持ちになって考えてみよう。
朝から晩まで、いや、夜中も、渡る人がいようがいまいが、あの「とうりゃんせ」は鳴っているのである。
慣れてどうも思わなくなるかもしれない。でも、そんな人ばかりではないのも事実だ。
努力して慣れようとしてくれていたかもしれない。
しかし、体調がすぐれない時、あの音が耳障りで、睡眠障害になり、健康を害してしまった人もいるのである。
この人たちの気持ちを「バリアフリー」の一言で辛抱を強いていいものではないだろう。
それでは「バリアフリー」の精神から外れるのである。

それでは、どう考えたらいいのだろうか?
どうも、この問題は日本特有の問題でもあるようだ。
昨今、鉄道の駅で、視覚障害者が電車にはねられる事故が目立っている。
ホームにドアをつけるなどの対策が講じられていても、なかなか費用のかかるものなのでどの駅でも対策がなされているものでもない。
事故が起こったとき、周りに誰もいなかったのか?
私は最初にそう思った。
白杖を持った人が、よちよち歩いているのであるから、だれか誘導してあげたら惨事にはならなかったはずだからだ。
このごろは、新型コロナのせいで人との接触を避ける傾向にあるが、危機にある人を救う余裕もないのか?
手を差し伸べるとか、声をかけるとかぐらいはできるだろう?
それともスマホいじりに夢中で見えないのか?それなら、あなたがホームから落ちるぜ。
私ならホームで白杖の人を見たら、注意を向けるだろう。
危ないと感じたら、さしでがましいと思われても、一声かけると思う。

実はアメリカなどではそれが当たり前だという。お隣の韓国でもそうだという。
いつだったか、韓国人の青年が命を賭してホームから線路に落ちた日本人を助けた事故があった。
危機が迫っている人がいたらなんとかしようとするのが人間だからだ。

音響式信号機に話を戻すが、ならば、住人のために音を消したとしても、白杖を持った人が横断歩道を渡ろうとしていたら、ためらわずに声をかけ、手を貸そうじゃないか?
音響式など、補助的な意味しかないのである。
視覚障害者の話でも、音響式の音があれば頼りにするが、なければないで、交通量や周囲の音で判断して渡っているらしい。
ここに私たち健常者が、勇気を出して手をさしのべられたら、本当の意味での「バリアフリー」が実現するのである。
機械を当てにするのではなく、「心」を当てにしてほしいのである。