先日、相模原市の障碍者施設「津久井やまゆり園」で入所者を大量殺戮した植松聖(さとし)の死刑判決が確定した。
この事件はこれで幕引きとなったが、たいていの識者は「真相が明らかにされないまま」と異口同音に言う。
この事件の「真相」などあるのか?あったとして明らかになるのだろうか?
植松はすべて心情を正直に法廷で述べた。何回も。
それはもう、「酌量の余地なし」であり、「反省を引き出せる」ものでもなかったことが明らかになっている。
ある意味「明らか」なのである。
世間一般には、植松に同調する意見もネットなどでは散見されるらしい。
匿名性の高いネット民の「たわごと」として片付けていいのかどうか、私としても歯切れが悪いが、私のような日々障碍者と生活をしている者にとっては、植松の意見が理解できなくもない。
「これを言っちゃあ、おしまいよ」という微妙な部分なのである。

障碍者は生産性がないとか、社会の役に立たないとかの植松の意見は、つい最近まで日本の政府の立場だったのだ。
語弊があるかもしれないが、「優生保護法」なんていう法律をのうのうとのさばらせていた国家である。
その法律の立法経緯には、さきに植松が述べた要点が根底に流れているのだ。
するとどうだ?植松の行為は罰せられてしかるべきだが、思想についてはなんら瑕疵はないことになる。
日々、障碍者といっしょにいると、いら立ちはしょっちゅう感じるし、「なんでこの人のために私がこんなに苦労しなければならないんだ?」という心情は起こるものだ。
内心の問題なので、植松のように表面化させたり、行動に出ることはない。
もっとも、施設などでは利用者に対するネグレクトや暴力行為が後を絶たないとも聞く。
また人の親になれば、自分の子は「五体満足」であってほしいと願うものだ。
最近ではその願いをメディアなどで公表することは障碍児に対する差別と取られるので慎むべき言動だとされている。
「五体満足」は裏を返せば「五体不満足」の否定であるからだ。
初産の高齢化にともなって、障碍児の産まれる確率も上がってきているというのは産婦人科医の共通の見解である。
卵子や精子の「劣化」が、悲しいかな、事実としてあるわけだ。

私は、こう思うのだ。
障碍者の人権を守るのは当然の私たち健常者の責務であり、これは動かしがたい「人間」としての責務だと思っている。
そして障碍者に「効率」を求めるのは間違っていると思う。
また「障碍者は健常者と同じ」という考えも、そうではないのだから、「同じではない。違いをみとめ合う」という立場が正しいと思う。
「障碍者もなんでもできる」みたいな幻想はお互いに良くない。
「できないものはできない」のだから、それを求めてはいけない。
そして「障碍者が手がかかり」、「社会の手を煩わせる」のは事実である。
その上で、私たちはは障碍者に優しい社会を目指すことをしなければならない。
そのための費用は必要であるし、設備も高くつくのである。
社会資本として障碍者のための社会資本は政府が手当てし、税金が潤沢に使われても、健常者は文句を言ってはいけない。
そうでなければ、それこそ社会の「生産性」が損なわれるからだ。
考えてもみよ、われわれ健常者が、社会資本なしに自腹で身内の障碍者の面倒を見なければならないとしたら、かなり社会生活、経済生活が削られるはずだ。
そんなことだと、ひいては日本の社会が生きづらくなる。
そこは社会資本が有形、無形の手当てをすることによって、円滑に社会活動が回るのだから。

やまゆり園の被害を受けた障碍者家族は、突然に命を奪われた息子や娘の無念をぶつける目標を失った。
植松は、思い通りに絞首刑になるだけで、彼らの溜飲が下がるとも思えない。

それよりも、私は…

障碍児を失った親御さんの悲しみの気持ちの後に芽生えるかもしれない、ある種のやすらぎ…
「あの子がいなくなって、よく眠れるようになった」なんて気持ちが少しでも起こった時、どうするのだろう?
悪魔に魂を売った親として後悔の念にさいなまれるのだろうか?
一瞬でもそんな気持ちになった自分を責めるだろうか?
それでは植松に感謝していることになりはしないか?
やはり、人目を忍んで障碍児を育てることは苦しかったのだ、しかしそれを親が感じることは許されないという葛藤に耐えられるだろうか?
植松の投じた一石は、私たちに大きな波紋をつくった。
奴は、死ねばいい。
何にせよ人の命を、むごたらしく奪ったのだから万死に値する。

しかし「葛藤」は私たちに絶対にないとは言えない。
十分にあると思うのだ。
私だってそうだからだ。
そして世の母親は障碍児を産みたくないと確実に思っている。
それでも障碍児は生まれてくる。
出生前診断が、お金さえ払えばできる世の中である。
そして命の選別も親の自由でおこなえる。
障碍児を産み育てることは、崇高だが、誰にもできるものではない。
個人が抱え込むには、重すぎるのである。

この手当は、われわれの行政が、われわれの社会資本でおこなうほかない。
それが障碍者にも障碍者家族にも優しい世の中だ。
まずは障碍者を知ることが先決ではないだろうか?
幼いころから、もっと障碍者と接してほしい。