今日のEテレ「日曜美術館」では上条陽子を取り上げた。
先月イスラエル軍によるガザ地区への激しい空爆があった。そして、攻撃から12日で停戦協定が発効し一応の平和が保たれている。
イスラエル軍の執拗なパレスチナへの攻撃は、過去に何度もあった。もっとも近いところでは2014年の空爆だった。
ユダヤ人とパレスチナ人の軋轢は、第二次世界大戦が終わって三年後の1948年に、ナチスから解放されたユダヤ人の新しい国家をパレスチナ人の住む現在のイスラエルに建設したことから始まる。
ナチスの迫害を受けたユダヤ人に同情的な連合国側の国際世論の後ろ盾を受けて、ユダヤ人は堂々とパレスチナ人とそれに与(くみ)するアラブ諸国を駆逐して国家建設をおこなったのだった。
ナチスから厳しい迫害を受けてきたユダヤ人が、結局、ナチスと同じことをパレスチナ人におこなうという、なんともやりきれない仕打ちだった。

ユダヤ人とて一枚板ではない。
アンネ・フランクのようなユダヤ人もいれば、ネタニヤフ首相のようなユダヤ人もいるのだった。
アルバート・アインシュタインだってユダヤ人である。
たくさんの、聡明で、慈悲深い、尊敬される愛すべきユダヤ人もたくさんいるのである。
なのに、イスラエルのユダヤ人たちは、パレスチナ人から力ずくで土地と生活を奪い、ガザなどの狭い不毛の地に塀を立てて囲い込んで、パレスチナ人をあたかも囚人のように監視して詰め込んでいるのである。
実は、ユダヤ人への迫害の歴史は、ナチスに始まるものではなく、キリスト教が生まれたころからすでにあった。
イエス・キリストを裏切った背徳者ユダを祖先とするユダヤ人は、長いことキリスト教世界から憎まれてきた。
ことに神聖ローマ帝国時代からこっちのドイツ帝国主義の時代はひどかった。ドイツ人のユダヤ嫌いはヒトラーの専売特許ではなかったのである。
いや、それよりもイエス・キリスト以前に、エジプトで虐げられていたユダヤ人がモーゼの引率で「出エジプト」を企て、ヤハウェと契約してパレスチナの地に住んだことから始まっていた(旧約聖書)。
ユダヤ教の方が先にあり、新興のキリスト教を面白く思わないのは当然の成り行きで、ユダvsイエスという構図は、後世の人にとってとても分かりやすく、ゆえに恨みは根深い。
ユダヤ人の勤勉かつ優秀性から、キリスト教徒から崇敬されもしたものの、守銭奴のように見られて嫉妬や羨望の的にもなった(シェークスピアの名作『ヴェニスの商人』を見よ)。
キリスト教徒は、心の底からユダヤ人を信頼してはいなかったのである。

いっぽうで、低い立場に置かれて差別の対象にされたボヘミアン(ドイツではツィゴイネルとも)の一部、ロマという流浪の人々の一部がユダヤ人だったこともある。彼らすべてがユダヤ人とは言えないにしても、差別対象として一緒くたにされてきた歴史もあった。
ユダヤ人とパレスチナ人について書きすぎた。先を急ごう。

そんな迫害の歴史を持つユダヤ人が、こんにち、パレスチナ人を下に見て迫害をしているのは見ての通りである。

日本人の上条陽子が、画家の立場でパレスチナ人に寄り添い、パレスチナ人の画家を日本に紹介し、展覧会を開いて、パレスチナ(主にガザ地区)の実情を、自らの作品も交えて広めようとしているのはなぜか?
今年八十三歳の彼女は、年齢を感じさせない行動力を見せている。
上条は、視力や運動能力を失うかもしれないという大病を克服したのち、パレスチナ地方に赴いた。
そこで惨状を目のあたりにし、生還してなお、障害を得ずに済んだ自身の幸運をパレスチナの和平に捧げようと決意したのだ。
画業でしか貢献できない上条は、出会ったパレスチナの青年に手持ちの絵の具セットを与えた。
そこから交流が始まったのである。
幾多の戦禍をくぐりぬけても、絵の交流は続いた。そして今もなお続いている。
検閲の厳しいガザから、固く丸められた筒状の荷物が上条の手元に届いた。
荷をほどくと、中からパレスチナの画家仲間の絵がぎっしり出てきたのである。
絵の具も乏しい生活の中で、パレスチナの画家は、鮮やかな色彩に満ちた絵を描いていた…
山のないガザ地区において、雄大な山脈の絵を描いてきた画家もいた。
かつて遊牧を生業としてきた彼らの脳裏に焼き付いている原風景なのかもしれない。
イスラエルによって隔てられた高い塀の外に広がっているであろう、山々の姿を木炭だけで描いたモノクロームの景色。
画材が乏しいだけではない、あえて黒で表現することで現在の心の内を吐露したかったのか?
絵の具がないので、バザールで入手できる様々な香辛料の粉末を溶いて絵を描く画家もいた。

つましくも、精一杯生きているガザのパレスチナ人を見て、私も力になりたいと思った。
そして、どうか無意味な争いは止めてほしいとも思った。

イスラエルを支えている西側の国々も、立ち止まって考えてほしい。
イスラエルの主張する正義は、パレスチナ人の多くの人権をないがしろにしている。
いっぽうの正義は、他方では正義ではないという典型だ。
イスラエルとパレスチナが共存できる世の中の樹立こそが、ただちに必要なことなのだ。
このほど、金にあかして、新型コロナウィルスワクチンを全国民に(それでも七割を超えることは無かった)接種したイスラエルが、今後、どうやって和平構築に貢献してくれるのか見ものである。

ユダヤ人が迫害を受けた歴史を刻んだというのなら、新たな迫害を自ら生むべきではない。