一遍(1239~1289)は「踊念仏」や「時宗」を遺した僧である。
彼の教えやその生涯は「一遍聖絵(国宝)」という合計135メートルにも及ぶ絹本絵巻物数巻に残されている。
伊予(愛媛)にの豪族の家に生まれた一遍は、河野時氏(ときうじ)と俗名を名乗っていたが、出家して浄土宗に学ぶ。
「一遍」は房号(僧房の名称)であったらしい。その意味は浄土宗の教えでもある、阿弥陀如来の名(六字名号:南無阿弥陀仏)を一度唱えるだけ(一遍)で、救われるという教義に基づく。
鎌倉中期から後期の日本は、鎌倉幕府の政治が行き詰まり、貧富の差はいよいよ激しくなり、庶民は救いを求めていた。
こういう時代に、新興宗教がおこるわけで、浄土真宗や日蓮宗なども庶民の不安を先取りして広まっていった。
その条件として、字の読めない、物を知らない、事の善悪など、なおわからない凡夫(ぼんぷ)をわかりやすい方法で取り込み導かねばならないことが挙げられる。
大乗仏教の最たるものが、日本の鎌倉期に醸成されていったことは、偶然ではない。
それまでの国教としての仏教は、貴族のための救いの標(しるべ)であり、庶民にはとうてい届かぬ教えだった。
それでも厳しい修行を要した南都北嶺の密教では貴族もついてこれず、だんだん法然らの唱える念仏系の浄土宗などに傾斜していくことになる。
貴賤を問わず、易い救いを求めるものなのだ。

そうした鎌倉中期において、一遍は自身の厳しい修行の末、「踊念仏」に到達するのだった。
そして彼の広めた踊念仏は俗名「時氏」の名から「時宗(じしゅう)」と呼ばれるにいたるという説と、彼がいつも言っていた「毎日が臨終のと思って生きる」という趣旨から「時宗」と言ったともいわれる。
※俗名が「時氏」というのが本当かどうか怪しいらしく、後付けかもしれない。「通秀(みちひで)」とか「通尚(みちひさ)」という俗名も残っているからだ。

「念仏を一遍唱えることと、百万遍唱えることでの阿弥陀仏の救いの違いはない」そう言って、一遍は鉦を叩き、声高に念仏を節をつけて歌い、踊り狂ってみせた。
その常軌を逸した、鬼気迫る念仏踊りは、庶民に忌避されるどころか、崇敬の念で受け入れられた。
それほど、当時は地獄絵さながらの、死と隣り合わせの世の中だったのだ。
道端には死体がころがり、野犬がそれを貪り食い、らい病患者が物乞いをして暮らし、武士が理不尽を強いた。
全く救いのない世の中で、一遍の「踊念仏」は仏の来迎に見えたことだろう。
易行(いぎょう)の宗教は、広まりやすい。
一遍は、「南無阿弥陀仏」と書いたお札を無償で配り、踊りに踊って布教した。
そしてそのあとに続く弟子たちも、「時宗」を広めることに専念した。
現在の「盆踊り」のルーツともいえる「時宗の念仏踊り」はこうして日本の津々浦々に浸透していくのである。

まさに元寇によって鎌倉幕府が窮地に追い込まれようとした矢先に、一遍は「時宗」を興したのである。
神風が吹いて、蒙古軍は蹴散らされた。
日本が神国であることを、幕府も朝廷も深く認識した出来事だった。

しかし庶民の暮らしには全く無関係の出来事だった。
庶民はことごとく「時宗」の念仏踊りに魅せられ、信じた。

一遍は、らい病患者にも慈愛をもって接した。
この世間から忌み嫌われ、生ける屍として河原で暮らしている人々に近づき「この世に無駄な生はない」と彼らにも生きて、信じる希望を与えた。
阿弥陀如来の慈悲は貴賤、善悪の区別なく、あまねく降り注がれる…
現世利益は望むべくもないこの世であるが、踊って、我を忘れると、何かしら心も体も軽くなる。
内から力がわいてくるような気がする。
これこそが「生きる力」となって、疲弊した庶民に躍動を与えるのだった。

武士の政治は、ことごとく失敗だった。
北條氏は朝廷、後鳥羽上皇と反目する。
そして承久の乱を起こしてしまう。

この頃の記録は極めて少ない。
ことに庶民の暮らしぶりを伝えるものは「一遍聖絵」しか残っていない。
この大作のおかげで、私たちは、生き生きとした鎌倉期の庶民の暮らしを眺めることができる。
日本人の絵のうまさに、感謝すべきだ。
日本のアニメや漫画が世界一だというのは、こういう歴史を持っているからだとつくづく思わせる。
「鳥獣戯画」しかり、「北斎漫画」しかりである。

今日のNHK「日曜美術館」を観て、一遍について、またそのころの人々の暮らしについて感銘を受けた次第である。