私の独断で、好きな俳人「二十人」を選んで、各人、三句ずつ選ばしてもらいました。現在、活躍されている俳人は除きます。

松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)
古池や 蛙(かわず)飛びこむ水の音
1686年に作られた句だそうで、あまりにも有名で、その解釈も様々です。外人に俳句を説明するときにこの句を使うと墓穴を掘るくらい、実は難しい句です。鳴き声ではなく、カエルが飛びこむその「音」に注目したのは芭蕉が初めてだった。切れ字「や」と「水の音」の「体言止め」で、心の情景をしっかり切り取っているところが俳句の可能性を私に教えてくれているのです。私は、芭蕉が水の音を聞いただけで、古池と蛙をまったく見ずに、想像力で詠んだと思っています。

(しずけ)さや 岩にしみ入る蝉の声
『奥の細道』にある句ですね。今の山形県にある「立石寺(りっしゃくじ)」を、同行の曾良と訪れた時に詠まれたものと伝わっています。これも「切れ字」と「体言止め」で独特の静謐な雰囲気を醸し出しています。うまいなぁと思いますね。真似ようとしてもできない。

五月雨をあつめて早し 最上川
これも『奥の細道』から。川の水源が「雨水」であることを、見事な擬人法で描いています。最上川という大河が生きているようです。もっとあれもこれも芭蕉の句を挙げたいのですが、三句だけだという決まりですので。

小林一茶(こばやしいっさ、1763~1828)
我と来て 遊べや 親のない雀
「小さき者」への慈しみを感じる一句です。雀を題にした一茶の句はいくつかありますね。雀に自分を重ねているかのようです。言うまでもないですが「遊べや」の「や」は切れ字ではなく「呼びかけ」の「や」です。一茶は幼少の頃に母親を亡くして、祖母に育てられていたらしい。子供の頃はいつも一人ぼっちだったんだろうな。

やせ蛙 負けるな一茶ここにあり
ここにも一茶の弱き者への応援があります。小兵(こひょう)蛙と大柄の蛙の相撲(雌を争っている?)になぞらえて、つい小兵を応援したくなります。

大根(だいこ)引き 大根で道を教へけり
農家の「あるある」風景ですね。冬の大根をせっせと土から引き抜いている農夫が、よそから来た人でしょうか、道を尋ねられる。農夫は手に持った、引き抜いたばかりの土まみれの大根で「あっちだ」と方向を指す様子。うまく切り取りました。

与謝蕪村(よさぶそん、1716~1784)
大阪(大坂)の人で、毛馬(けま)という淀川のほとりの村で生まれたそうです。
菜の花や 月は東に 日は西に
目の前の「菜の花」から、宙(そら)の月と日に視点が移っていく、壮大な句です。柿本人麻呂の「東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ」を本歌取りしたと言われる名作です。

春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな
この句で「ひねもす」の意味を知りました。「のたりのたり」というユーモラスな語感が印象に残ります。私は、自分が一日中「ごろごろ」しているのか、と勘違いしていたのです。初句が「春の海」ですから、一日中、波がたゆたっている、そののどかな状況を詠んでいるのですね。

夏河を越すうれしさよ 手に草履
油照りの夏、草履を脱いで川水に足を入れた時の気持ちよさ。手に持つ草履も軽やかに揺れます。なんで「川」ではなく「河」なんだろう?けっこう大きな川なのかな。古典の先生に聞いた話では、「河」は川の規模を表しているのではないとのことで、小川でも「河」の字は使うそうです。ふつう大河には「江」という漢字を使うらしい。ただ、中国では「河」というと「黄河」指すので大河のイメージがあるのだそう。「河」の解字では「直角に曲がる水路」の会意形声文字だそうです。そのように急に曲がる川を「河」といい、確かに「黄河」はオルドス付近で大きく曲がっています。だから蕪村のこの句は、小川でもくねくねと曲がっている、手に草履を持っても渡りやすい川だと推測されます。

正岡子規(まさおかしき、1867~1902)
近代俳壇の父とも言うべき俳人です。江戸時代の俳句が「俳諧」という師弟関係で発展していったことと比較して、子規の時代も「同人」という関係で雑誌を出版し、世に問うのが俳人の仕事でした。句会以上に同人誌が大事な発表の場となり、また、同人の地域的な広がりも全国的でありました。
柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺
「写生」を重んじた子規の代表句です。俳句と言えばこの句が挙がるくらい有名ですね。芭蕉の「古池」の句と同様、さまざまな解釈がなされています。でも子規の気持ちになれば、その意味はおのずとわかろうというものです。そのまんま、柿をほおばるように味わえばいいのです。子規の柿好きは同人の間では有名だったそうです。

いくたびも 雪の深さを尋ねけり
子規の作句時代は、ほとんどが根岸(東京市)の病床にありました。結核から脊髄カリエスへと進行し、手術も受けたようですが回復せずますます悪化の一途をたどります。寝たきりの子規が、冬に病床で「外は雪が降っているようだ」そして世話してくれている妹の律(りつ)に何度も「どれくらい積もったかね」と尋ねる自分のおかしみを客観的に見ています。

鶏頭の十四五本もありぬべし
これも「写生句」の例で、子規が病床にあり、その枕元で同人が集まって句会を開いたときに出されたものらしい。その場での同人たちの評価が決して高くなかったのに、なぜか有名になった句だそうです。この後しばらくして、子規は病魔に勝てず息を引き取るのでした。

高濱虚子(たかはまきょし、1874~1959)
正岡子規に俳句を学び、「ホトトギス」同人として、彼の子孫によって「ホトトギス」は受け継がれています。稲畑汀子とその息子の廣太郎(虚子の曾孫)が主宰しています。「虚子」は本名の「清(きよし)」をもじったものです。
風吹けば 来るや隣のこいのぼり
「客観写生」「花鳥諷詠(咏)」をモットーとした虚子ですから、その代表句でもあります。わかりやすいが低俗でない。むしろ洗練されているうまさを感じます。

酒もすき 餅もすきなり 今朝の春
子規同様、虚子も食道楽だった(?)。これには、お正月の屠蘇気分の、よろこばしい雰囲気がよく出ています。少しハメを外したい気持ちです。

行水の女にほれる 烏かな
色っぽいが、どこかほほえましい、漫画的な一句です。昔、行水は家の前の路地などで、老いも若きもどうどうとやっていたはずです。そこに烏が止まっている。この句は夏目漱石の『吾輩は猫である』にも出てくるんですよ。たしか。

川端茅舎(かわばたぼうしゃ、1897~1941)
虚子の弟子で、ホトトギス派の中でも虚子に次ぐ俳人だと評されています。最初は画家を目指していて、異母兄に日本画家の川端龍子(りゅうし)がいます。
一枚の餅のごとくに雪残る
さすが画家の目で「写生」を実によく表現している句だと思います。季語は「雪残る」です。早春ですね。
ぜんまいののの字ばかりの寂光土
茅舎は京都の東福寺の塔頭で画業と俳句の修養を重ねていたことがあり、仏教からの影響も強く受けているようです。「寂光土」とは「浄土」と同義です。ぜんまいという早春の山菜の形を「のの字」と比喩し、「の」が三つも句の中で続くというおかしみを表現しています。春が近く、なにやら浮かれる気分が現れているようです。
咳き込めば 我(われ)火の玉のごとくなり
喘息持ちの人や、風邪で咳がなかなか収まらないときにこのつらさがよくわかるでしょう。顔が真っ赤になって、もう「かんにん!」と言ってしまう。

水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし、1892~1981)
お医者様で医学博士の肩書を持つ、「ホトトギス」で俳句を始めながらも、ついには「反ホトトギス」の旗手となる俳人でした。山口誓子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」と並び称されました。「馬酔木(あしび)」を主宰し、「ホトトギス」と対向したのです。
薄氷(うすらひ)の このごろむすび 蓮(はす)枯れぬ
私が「うすらひ」という言葉を覚えた句でした。私が生まれ育った大阪府門真市は蓮池が広がっており、レンコンが名物でした。もちろんPanasonic(そのころは松下電器産業)の本社のほうが有名かもしれません。冬になると蓮池の蓮はすべて葉を枯らせ、茎だけになったものが寂しげに水面に影を落としていました。ただ、レンコンの収穫はこの頃が旬なんです。夏のように葉が茂っていては作業がはかどらないからです。
瀧落ちて 群青世界とどろけり
豪快な句です。滝つぼに怒涛の水が落ちてくる。深い青の水は波立ち、しゃべる声もかき消されるほどの轟音でした。動画を見るようです
よどみなく 童女うたふや手毬唄
幼い女の子が、一心に、毬をつきながら「あんたがたどこさ」と歌っているのでしょうか?「よどみなく」というのが、秋櫻子のじっくり女の子を観察している風情を感じさせます。歌がよどみないということは、毬つきも上手なのでしょう。

荻原井泉水(おぎわらせいせんすい、1884~1976)
自由律俳句に生涯をささげた人で、子規の高弟で虚子と双璧をなしていた河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の、いわゆる「碧門」の門下で学んだ俳人です。彼は尾崎放哉や種田山頭火という「自由律俳人」を育てました。
我家まで 月の一(ひと)すぢ
「五・七・五」の定型を破っています。これが俳句か?と言われたらどう答えますかね?しかし、月光の下に我が家へと続く一本の道の情景がはっきりと読む者の眼前に広がるようです。俳句と言って憚るのなら「短い詩」とでも言いましょうか?
水がうたいはじめる春になる
これも童謡の一節のような句ですが、実は各地の小学校の校歌を井泉水が作詞しています。作曲は團伊玖磨で。
石、蝶が一羽考えている
このように「、」を句の中に配して、読み手に「切る」ことを井泉水は促すこともしました。蝶が石の上で羽を休めているのを「考えて」いると擬人化したのです。コピーライターの先駆でしょうか?

井泉水も京都の東福寺の塔頭で生活していたときがありました。寺男のような仕事で生計を立てていたのでしょう。時代の流れで俳壇が左傾化していくことに彼は忸怩たる思いを持っていたようです。大政翼賛会が興り、井泉水は「自由律」という言い方が彼らから「左翼的だ」と言われ、あっさりと「内在律」というわけのわからない名称に変更し、軍国主義に協力的になっていくのでした。

種田山頭火(たねださんとうか、1882~1940)
現在もファンの多い俳人です。自由律俳人といえば山頭火と尾崎放哉(ほうさい)を挙げる人が多いでしょう。ある事件がきっかけで彼は妻と息子を捨てて、乞食僧になってしまいます。そして九州から本州、四国と行脚に出てしまうのです。人生そのものが「自由律」な俳人でした。それでも奥さんと息子さんは、夫であり父親である彼を見捨てなかった。そんな彼を遠くから見守っていたようです。
分け入っても分け入っても 青い山
あまりにも有名な山頭火の句。夏山を汗みずくの行乞(ぎょうこつ)僧が黙々と登っている。見上げれば、木々に切り取られた夏空に、青い頂きがのぞいている。そんな感じですかね。
うしろすがたのしぐれてゆくか
これも有名な句です。一人時雨(しぐれ)の中を歩く山頭火を客観的に見ているとも取れるし、山頭火が時雨の中を急ぐだれかを見送っているようにも取れます。時雨は寒いんです、晩秋から冬にかけて、雪になる前の冷たい雨ですから。
咳がやまない 背中をたたく手がない
彼もまた、過酷な生活環境で体を壊していきます。酒が好きで、それが災いしたのかもしれません。肺を患い、咳きこむ毎日でした。でも一人ぽっちです。放哉の句にも同じようなものがありましたね。山頭火は温泉好きで、九州は温泉に事欠かないですから、あちこちの湯に浸って、リフレッシュしていたようです。それでも病魔には勝てなかったのでしょう。

尾崎放哉(おざきほうさい、1885~1926)
自由律俳人として名高い俳人です。その生涯も壮絶だった。東大を出て、東洋生命(現朝日生命)という大企業に就職して何不自由ない生活を約束されていた彼が、晩年は瀬戸内海の小豆島で一人寂しく亡くなっていくのです。しかしそれなりの理由がありました。彼は仕事ができなかった。そして社員や客とのトラブルが絶えなかった。会社としても彼をかばいきれなくなって、朝鮮半島で事業を企てようとするけれど失敗。妻と一緒に死んでくれと頼む秀雄(放哉の本名)だったけれど、妻にも愛想をつかされる。唯一のたしなみが俳句だった。荻原井泉水に師事し、救われていろいろ職を紹介されるがどれも続かない。性格が悪いんですね。タカピーなところが抜けないんです。
咳をしても 一人
なんだ?このキャッチコピーのような句は?放哉の代名詞ともいうべき句です。この短句の中に言い得ない寂寥感が漂います。自分が招いた孤独。こればかりはどうしようもない。
いれものがない両手でうける
小豆島で古寺を守る仕事(?)に就きますが、何もしないし、何もできない。村人からは「有名な俳人」ということで、いろいろ世話になっている。食べ物ももらうわけです。酒さえ飲まなければ、放哉は、村人とうまくやっていけただろう。しかし酒を飲むと、嫌な自分が出てしまい、村人につらく当たったりするのです。おれは東大出てるんだぜ、俳句でもひとかどの人物なんだぜ…なんてことを言う。実際、放哉の俳句の才能を、井泉水やその門人たちも認めていて、なにくれとなく金品を送ってくれたりしているんです。なのに、放哉はそれが当たり前のようにふるまう。
こんなよい月を一人で見て寝る
吉村昭が放哉を取材してその生涯を作品にした『海も暮れきる』に、かつて愛した妻の裸体を思い浮かべて、自慰にふける放哉の描写がありました。もう肺もかなり悪くなって苦しいのに、寝床で動かせる手だけを使うのです。この本の題「海も暮れきる」も放哉の句の一つでした。その細君とは正式に離婚していなかったと思います。細君のほうは女一人で、立派に生計を立てていたそうですが、放哉が亡くなるまで小豆島に尋ねて来たことはなかったそうです。なぜなら、彼は妻に零落した状態を知られたくなかったのか、プライドが許さなかったのか、一切、知らせていなかったからです。細君は、彼の葬式にやっと小豆島を訪れ、変わり果てた夫と再会しました。

中村草田男(なかむらくさたお、1901~1983)
高浜虚子に師事し、俳句の世界に没頭します。石田波郷や加藤楸邨とともに「人間探求派」と呼ばれる一派をなしました。西洋思想の影響がありメルヘンチックな作風もあります。
降る雪や 明治は遠くなりにけり
これが一番知られている彼の作でしょうかね。詠まれた時期が昭和六年だったらしいから、明治生まれの草田男にとって遠く感じられたのでしょう。雪にはしゃぐ幼い子供たちを見て自分を重ねて詠んだとされています。ジェネレーションギャップを嘆いているのではなくノスタルジーを感じている句なんですよ。
万緑の中や 吾子(あこ)の歯 生え初(そ)むる
我が子の最初の歯が生えたことを喜び、それが生命の生い茂る「万緑」の候だったという感動を素直に詠んだ句です。「面白みがない」と評する人もありますが、私は好もしいと思いますよ。何か、生命の力強さを感じるんです。「人間探求派」の真骨頂でしょう。
葡萄食ふ 一語一語の如くにて
これも人間観察の極致かもしれない。大きな葡萄の実をほおばって、もぐもぐさせている様が、一言一言かみしめてものを言う様に映るわけです。

山口誓子(やまぐちせいし、1901~1991)
昭和の俳壇を率いて来た俳人であり、平成になってお亡くなりになった。虚子門下で「四S」の一人です。水原秋櫻子が「ホトトギス」と袂(たもと)を分かったときに、一緒に彼も飛び出したんですね。山口誓子もそうですが、「ホトトギス」派には高学歴、ことに東大出身者が多いですね。
学問のさびしさに堪へ 炭をつぐ
高学歴の学生、誓子らしい一句です。東大俳句会に秋櫻子とともに所属し、作句に励んでいたとみえます。寒い冬の自室にこもって手あぶり火鉢に炭をつぐわけです。そこに蛍雪の功がにじみます。ともすれば無味乾燥にも感じられる学問の世界、しかしその努力の果てには明るい未来があるのだと思いたい。
ほのかなる少女のひげの汗ばめる
「ひげ」といっていますが、鼻の下の産毛のことでしょう。もし黒々としたひげならそれは違った世界になりますから。夏には少女も汗をかく。産毛に汗の玉があつまって、みずみずしい青春の一ページを飾ります。純情な学生にも恋心が目覚める。そうでなくっちゃ、哀れじゃないか?遅い思春期の男の子の目覚めでしょうか?
夏の河 赤き鉄鎖(てっさ)のはし浸る
町の川には、もはや自然の風情はないのでしょうか。船をもやう船着き場だろうか、鉄の鎖が赤く錆びてその端を川面に浸らせている。耳を澄ますと、どこからか喧騒も聞こえ、車や電車の音までも聞こえてきます。

このように山口誓子の俳句には現代的な、もっと私たちに身近な「何か」を切り取ってくれているようです。子規や虚子の追求した「写生」をさらに推し進めて観察眼を養った末、このように生き生きとした句が生まれたのでしょう。

飯田蛇笏(いいだだこつ、1885~1962)
虚子門下で俳誌『雲母(うんも)』を四男、龍太とともに主宰しました。山梨県の田舎に住み続けて作句し、江戸期の古い俳句の研究にも没頭していました。大正期に「ホトトギス」の隆盛に参与した功績は大きいと思います。
芋の露 連山影を正しうす
いい意味で古さを出して、格調の高い句になっています。トラディショナルな俳句とでもいうべきでしょうか?「正しうす」の音便がいい。甲府市「芸術の森」にこの句碑があるそうです。
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
仕舞い忘れた、軒先の風鈴。それは南部鉄のあの風鈴でしょうか?侘しい響きが、俳句にしてみたくなるのです。そして見事な「写生」だと思います。
たましひのたとへば秋のほたるかな
この句なんかは、単なる「写生」とは言えない、亡き人への深い悲しみを昇華させるような蛍という、ほかの昆虫とは違う「光る」虫に、魂を仮託させることを、嫌みなく伝えているように思えます。ただただ美しい。

加賀千代女(かがのちよじょ、1703~1775)
「加賀の国千代女」とも。江戸時代の俳諧に女流がいたことは、特筆すべきことかもしれません。浮世絵師にも北斎の娘だとか、表立っては出てこないが確実にいて、男性よりも才能を発揮したらしいことが伝わっています。
朝顔に つるべ取られてもらい水
千代女の代表句であり、子規によれば「俗だ」とぼろっかすにこきおろされているけれど、私は好きですよ。そんなこと言ったら「柿食えば…」の句なんか、どうってことないじゃないですかね。この句に込められた千代さんのやさしさが現れていて、母に教えられてこのかた、私のもっとも好きな句です。それが昔々の江戸時代の女性だとは思えないくらい、近所のお姉さんという印象なんですよ。ではこの句の季節は?夏?残念、秋なんです。
身にまとふ ものとは見えず 綿の花
綿花から着物ができることを大人からは聞いてはいるが、目の前の可憐な綿花を見ていると、そうは思えない…私もそう思うんですね。江戸時代には普通に綿花が畑に植えられていて、綿の着物、蒲団の綿(わた)などに不可欠な産業植物でした。
水仙花 よくよく冬に生れつき
水仙という花は冬の花の少ない時期に咲く、珍しい植物です。そして遠くまで届く香りが特徴です。千代さんでなくとも「よくよく冬に生まれてくれたものだ」と言いたくなります。この植物が昆虫もまだ出てこない時期に香り高い花を咲かせて、いったい何を呼んでいるのだろう?実は、水仙の花は種が、風媒でできることはできるらしいのですが、この種が発芽して花を咲かせるには数年かかるらしいのです。そしてもっぱら球根の分球で増えることが知られています。

高野素十(たかのすじゅう、1893~1976)
この人も水原秋櫻子と同じく東大医学部卒業でお医者さんであり医学博士でもありました。秋櫻子と酢重は先輩後輩に当たります。そしてホトトギスでは「四S」と呼ばれた俳人でした。
(はね)わって てんたう虫の飛びいづる
昆虫を詠んだ句が多く、その観察眼に驚かされます。さすが理系。テントウムシのような甲虫は割るように翅を開きますから、まさにこの句が表現している状況です。いまに飛び出す瞬間を捉えました。
ひっぱれる糸まっすぐや甲虫(かぶとむし)
これも昆虫の句です。カブトムシの角(つの)に糸を括りつけて荷を引かせる、男の子ならだれもがやったことのある遊びでしょう。ピンと張った糸に力がみなぎります。
くもの糸 ひとすぢよぎる 百合の前
今度はくもの糸をじっくり観察していますね。クモはまず水平の糸を一本張って足場としますから、その一本が大輪の百合の前を横切っている。おそらく太陽の光で一瞬、きらりと光ったのでしょうか?

阿波野青畝(あわのせいほ、1899~1992)
ホトトギスの「四S」の一人です。奈良県の畝傍(うねび)の生まれで、そこから「青畝」と号しました。幼いころに病気で難聴になってしまったというハンディキャップを持っておられたようです。虚子に入門し、虚子は難聴でも俳句はできると励ましたのでした。ただ、青畝は虚子の「客観写生」の俳句の作り方に異論を唱えていたのですが、虚子は優しく「そのうちわかるときがくる」と諭したそうです。
山又山山桜又山桜
この暗号のような句はどうでしょう?ぶっ飛んでますね。
葛城の山懐に寝釈迦かな
青畝の地元を詠んだ句。「やまふところに」と読みます。季語「寝釈迦」は涅槃会(釈迦入滅の日、旧暦2月15日)を表すから春になります。葛城山は役行者の修行の山の一つ。二上山と金剛山と並んで霊峰であります。
月下美人膾(なます)になって了(しま)ひけり
月下美人という多肉植物(クジャクサボテンの仲間)で純白の大輪の花を夜ふけに咲かせ、また香りがすばらしいといいます。「コウモリ媒花」なので、夜間に強い香りを放つのでしょう。コウモリはこの花の蜜や花粉を好むそうです。この句では、実際に月下美人という植物を詠んでいるのか、たしかにこの花は鑑賞後、摘み取って膾にして食べられるようですが、やはり、美人も、花の頃を過ぎれば、くたくたの膾になってしまうのだという冷めた皮肉を詠んでいるのだともいえます。

山口青邨(やまぐちせいそん、1892~1988)
この人も理系俳人です。当然東京大学の出身です。青邨もそうですが、秋櫻子や素十も子規に影響されてか大学時代に野球に力を注ぐんですね。子規は根っからの野球好きでしたが、体が不自由になってそれもままならなかった。でもその精神は東大の俳句をたしなむ学生に受け継がれていくのでした。
今の東京六大学野球に東京大学が参加しているのはその歴史の古さにあるのだと思います。負け続けても、伝統ですから(阪神タイガースみたいだ)。青邨は鉱山学を修め、工学博士になられます。
銀杏(いてふ)散るまっただなかに法科あり
これはまさに東京大学の法科の学舎を詠んだものです。当時は「法学部」ではなく「法科大学」であり学生の間では「法科」と呼びならわされていました。東大生は知っているでしょうが、校章は「いちょう」ですよね。実は京大も、阪大(大阪大)も「いちょう」なんですよ。
福笹(ふくざさ)をかつげば肩に小判かな
正月も過ぎれば、十日えびすの縁日です。そこでは「福笹」が授けられ、小判や米俵などの縁起物を選んでつけてもらいます。それを誇らしげに担いで帰る気持ちが伝わります。作り物の小判がちゃらちゃら肩に当たるんでしょう。
おぼろ夜や獺(おそ)が祭れる魚白し
皆さんは「獺祭(だっさい)」というものをご存知でしょうか?お酒の銘柄?なるほどありますね、山口県のお酒ですね。獺(おそ、かわうそ)は、魚を獲ると、まったく神にささげるように獲物を川岸に並べる習性があり、それを人が見て「祭っている」と思いこれを「獺祭」と名付けたといいます。青邨はそのことを実際に見たのでしょうか?
全体に「硬派」な俳句ですね。理系の人の俳句はどうもそうなるように思えます。

金子兜太(かねことうた、1919~2018)
この人はつい最近まで、存命で、平和主義者で、安倍政権に批判的だった、尊敬に値する俳人であり、文化人でありました。兜太は兵隊経験者(海軍主計中尉)であり、トラック島の激戦をかいくぐって、命からがら生き延びてこられたのです。戦争でさまざまな理不尽に出会い、醜いものを見てこられました。だからこの人の句は強い印象を受けます。加藤楸邨の門下で俳句を学びます。
彎曲(わんきょく)し火傷(かしょう)し 爆心地のマラソン
解説はいらないでしょう。ただ長崎で詠まれたとされています。無季破調の俳句で、人々は「前衛俳句」だと評します。平和を祈ったのか?そこまではわかりません。うがちすぎてもよくない俳句だと思います。
水脈(みお)の果(はて) 炎天の墓碑を置きて去る
これが兜太が南方の島、トラック島で経験した、激戦の阿鼻叫喚地獄から生還したときを偲んで詠んだものだそうです。墓碑は無念の死を遂げた戦友のものだったのでしょう。
長寿の母 うんこのようにわれを産みぬ
どっと笑いが興りそうな句です。兜太が親類から聞かされた、自身の誕生秘話からの作句だそうです。でもまじめな句なんですよ。余韻が沁みます。お母さんは長生きだったんですね。兜太も長生きだった。

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう、1873~1937)
正岡子規の高弟として高濱虚子と双璧をなしていた、近代俳壇の巨人です。私は形式を重んじる虚子より、自由な碧梧桐のほうが好きだ。自由律を愛した荻原井泉水と碧梧桐は「ホトトギス」から脱し、様々な可能性を俳句で追及したのです。私は日本語による最も短い詩であると、俳句を定義していますが、だから定型にこだわらず、もっと短いものがあってもいいし、標語のようなものでも心に響く文があると思うのです。碧梧桐の一門を「碧門」と呼ぶことがあります。
赤い椿白い椿と落ちにけり
ぽたぽたと花を落とす椿を「写生」した、なんということはない句ですが、不思議なリズム感があります。それも映像的な。
(くも)の子や親の袋を噛んで出る
親のお腹を食い破ってクモの子が這い出てくるのではありません。雌のクモは卵嚢(egg sac)という卵の塊の入った袋を柱の隅などに産み付けます。この卵嚢をクモの子は食い破って出てくるのです。「蜘」一文字で「クモ」と読ませるんですね。「蜘蛛」のほうが知られているので。
愕然として昼寝さめたる一人かな
これは私も経験があります。夏の昼寝は、突如目覚める。すると、ここはどこ?という幼い頃の記憶。家には誰もいない。玄関は開けっ放しで、セミの声がワンワンしている。動くものといったら扇風機の首振りだけ。愕然というより悄然ですかね。

加藤楸邨(かとうしゅうそん、1905~1993)
水原秋櫻子の弟子になりますか。草田男と波郷と並んで「人間探求派」と呼ばれる一派を担っていました。戦前は高等学校の先生をやっておられたようです。国語の先生ですね。
雉の眸(め)の かうかうとして売られけり
まだ死んで間もない雉なんでしょう。目はかっと見開いている。断末魔の苦しみを湛えている。ああ無情!
鮟鱇(あんこう)の 骨まで凍(い)ててぶちきらる
高校の現代国語の教科書に載っていました。その時にアンコウのつるし切りを先生から教わりました。
寒雷や びりりびりりと真夜の玻璃
よほど近くに落ちたのでしょう、ガラスが振動しています。肝を冷やした瞬間ですね。

【番外】そのうち、以下の俳人についても書きたいと思います。
西東三鬼(さいとうさんき)
久保田万太郎(くぼたまんたろう)
石田波郷(いしだはきょう)
芝不器雄(しばふきお)
鈴木眞砂女(すずきまさじょ)
星野立子(ほしのたつこ)
杉田久女(すぎたひさじょ)
松本たかし(まつもとたかし)