日曜美術館でベルギーの中世の画家、ヤン・ファン・エイク(1390?~1441)を特集していた。
彼の宗教画は兄のフーベルト・ファン・エイクとともに有名で、兄との合作の『ヘントの祭壇画』という12枚の多翼(折りたたまれている複数の絵を、祭祀の時に拡張して祭壇とする)が今回、大幅な修復作業が終えたそうだ。

エイク兄弟が活躍した初期フランドル派の時代は、宗教画の要請が多く、金持ちがこぞって美しい宗教画を彼らに描かせ、屋敷に飾ったようである。
それらは鑑賞用というよりは、自宅に司祭と人を呼んで、ミサを執り行うことが、主人の信仰の深さをアピールし、貴人のステータスシンボルだったらしい。
当然、人々の崇拝を集めたいがためにエイク兄弟のような匠に描かせることが誉であった。
画風の鮮やかさ、この世にないものを、目の前に「あるがごとく」開陳させるという非日常感を画家に求めたのである。
まったくこんにちにおける、液晶大画面で8K映画を見せたがる富裕層の人々のようだ。

ファン・エイク兄弟の絵を鑑賞すると、そのリアル感にまず驚かされる。
布地のマチエール(質感)はもとより、宝石類の輝き、金属の光沢、遠近法の写実など、油彩の技術を「これでもか」と駆使した作品になっている。
「光」を巧みにとらえる手腕は、その後、オランダのフェルメールやレンブラントらに受け継がれていく。
また一方で、物理学者のニュートンやフェルマーらが、光を科学的に研究するきっかけにもなったに違いない。

なぜこのように、エイク兄弟が光を描くことができたのか?
私は北部ヨーロッパ出身の彼らに特有の感覚があったからではないかと思っている。
北緯50度以上(稚内市で北緯45度である)のこの地域の冬は暗い。
したがって、夏の日差しが恋しい人々が住まっているだろうことは想像に難くない。
ロウソク程度の明かりしかなかった中世において、その弱い光によって浮かび上がる世界は、幻想的ですらある。
後のレンブラントが「光と影の画家」と呼ばれたことも故なきことではなかろう。

弱い光は、金属の映り込みや宝石の反射や屈折を際立たせる。
また翳(かげ)が立体感を、いやますのである。
光があるから「物が見える」という、至極当たり前のことを画家は古来から追求し、科学者でないのに、科学者以上の仕事をしてきたのだった。

光が乏しい世界で生活していた彼らだから、人一倍、物の見え方に光が強く作用していることを知っていたのである。
ヤマザキマリが番組でいみじくも指摘していたが、イタリアの貴族や王族が抱えた画家には北ヨーロッパの人が多かったらしい。
それは「光」を希(こいねが)う人々から生まれた画家だったからだ。

ファン・エイクの絵をつぶさに観察すると、必ずしも輪郭を正確にたどって描いているのではなく、たとえば『アルノルフィーニ夫妻像』の奥の壁にかかる水晶玉の数珠の水晶玉は絵の具を乗せただけの印象派のような手法で描かれている。
離れて見ればそれは、美しい水晶玉にちゃんと見えるのだ。
同じ絵の箒(ほうき)もそうだ。
箒の「ささら」の部分は一本一本描かれているのではなく、ひっかいて下地を出す技法が使われていて、これまた離れて見れば、見事な箒にしか見えない。
宝石類は「ハイライト」の添加(反射)と宝石を通して見える背後の物体(屈折)を描くことで、よりリアルに描かれる。
磨かれた金属は、鏡のように外の景色を映していることを描き、水の入ったガラスの瓶(へい)は光の屈折による背景の歪みでそれを表している。
また、色による遠近法として、空気感(大気の存在)を出すために、遠景の山々は青みがかった色彩で描かれ、それもぼんやりと霞ませているところがミソである。
これらの技法がファン・エイクらによって、見事に結晶化されている。

印象派の絵が近代に入って突発的に起こったのではなく、その基本的な技法はフランドル派によってすでに確立されていたと言える。
ルノワールやモネは、それを観る者に再発見させたのではなかったか?
写真のなかった時代にファン・エイクやフェルメールらによって、よりリアルさを表現することが研究され、ゆくゆくは印象派を育て、シュールレアリスムを育てることになったのだと、私は理解した。
当然そこには「写真技術」との対比としての絵画技術があったことを忘れてはいけない。