今日の『日曜美術館』は、あの「渡辺崋山」でした。
江戸後期の肖像画家として「鷹見泉石像」などが有名ですかね。
鷹見泉石
これが「鷹見泉石像」です。
鷹見泉石は蘭学者で、崋山の学問の師でもありました。
私が驚いたのは、崋山が田原藩(現在の愛知県田原市)の家老まで務めた「お武家様」だったということです。
そして、えらく困窮していたらしい。
仕官する前、十代ですかね、大病を患っていた父親(田原藩の家臣でしょう)の看病に追われ、幼い兄弟の世話もしながら、絵の勉強をしていたようです。
※田原藩江戸屋敷に住まっていたのでしょう。今の最高裁判所のあるところがその屋敷だったそうです。

薬代に事欠くありさまで、とうとう末の弟を、幼いのに奉公に出さねばならない始末に。
断腸の思いで弟を見送る崋山。苦労の連続です。

父親を看取るころには、崋山も絵を描くことで家計を助けていました。
父が長い闘病の末、亡くなり、崋山は父のデスマスクを描き取ります。
涙で、手が震え、何度も線をなぞる。
肖像画で、こんなに苦しいものを私は見たことがない。

崋山は、看病から解放され、つかの間の旅に出ます。
絵筆と紙をもって房総半島を歩きます。
その絵巻が数巻、伝えられています。
すばらしい写生です。
「鳥獣戯画」や「北斎漫画」もそうでしたが、崋山の風景写生も見飽きることがない。
見れば見るほど、新しい発見があり、また絵に描くという思いが伝わってきます。
牧歌的なたくさんの馬が草を食んでいる、広々とした景色がありました。
どこか、日本ではない、ヨーロッパの風景のようにも見えます。
銚子の港の風景も、活気が伝わってきます。

崋山は、たくさんの素描を残し、市井の風景、鳥獣虫魚、山川草木、なんにでも観察の目を向けます。
多くの日本の画家がそうであったように、崋山もすばらしい観察力を持っていました。
崋山の生きた江戸後期は、黒船が来航し、世の中が不穏になってくる時代でした。
そしてようやく田原藩の家老に任じられます。崋山は四十を過ぎていました。
絵の方でも、肖像画家としてゆるぎない名声を得ていました。
藩政においても、農民を守るため、崋山の発案で徴税した年貢米の一部を飢饉用に蓄え、天明の飢饉を乗り越え、一人も農民の死者を出さなかったとして幕府から表彰されもしたのです。
そんな意識の高い家老、崋山は、蘭学者とも交流があり、開化した考えを持っていました。
絵の方でも西洋に学び、絵の具の濃淡で陰影をつける、よりリアルな日本画に自分の画風を昇華させます。
だから、当時の幕府の政策に不満も高まっていました。
「異国船打払い令」に反発して、幕府に対する不満をしたためた文でおとがめを受け、藩内で蟄居を命じられます。
江戸幕府では「海防論」という異国船に対する取り締まりを強化して鎖国を一層強めて国土を守る考え方が主流でした。
しかし、崋山や、高野長英、吉田松陰などは真っ向から「海防論」に反対していたのです。
崋山が「モリソン号事件(1838年)」で「異国船打払令」の不備を激しく断罪するも、論旨に一貫性を欠き、ただただ幕府に対する批判に終始したのは、自身の田原藩家老の微妙な立場が影響していたのでしょう。高野長英のように自由に物が書けなかったから、開国を望みながらも幕府の「海防論」を叩くことをせず、「不備」を指摘するにとどめたのでしょう。

幕府が田原藩に崋山の蟄居を命じたことから、崋山は初めて田原藩に赴き、一人で住まうという経験をするのです。
蟄居命令は、画家崋山にとって願ってもないことでした。
絵画三昧の生活ができるわけだから。

弟子に椿椿山(つばきちんざん)という友人がいて、親しくしていた。
崋山の残した絵や手紙はほぼ、椿山が受け継いでいたようです。
蟄居中にもかかわらず、自分で描いた絵を売りさばいている…そんな噂が立ち、藩主の耳にも入ります。
実は、蟄居中のため苦しい暮らし向きで、絵を売ることで日々のつましい暮らしを維持していただけでした。
あまりの崋山の困窮ぶりに、椿山など弟子たちが憐れんで、崋山の書画頒布会を開いて生活を助けたことがあだになったのでしょうか?
こういったことが「お上」に知れると藩主は「監督不行き届き」の咎めを受けかねません。
崋山もそれを恐れました。
自分には「売りさばいた」気持ちはないのだが、藩主にあらぬ咎めを及ぼしては家臣として忍びないと思ったのでしょう。
そこは武士なんですね。
曲がったことは嫌いで、絵も、仕事も、学問も真っすぐにやってきた崋山です。
幕府への苦言も、的を射たものだった(だから煙たがられた)。
武士の身の処し方は、腹を切ることです。
崋山はそれを選んだのです。
1868年4月のことでした、徳川幕府は風前のともしびも消えようとしていて、もう目の前に明治時代が迫っていたのに…

渡辺崋山、私の好きな画家のひとりになりました。