モノを売ることと、モノを買うことはゲームなんですよ…
「売買」はフォン・ノイマンやジョン・ナッシュの「ゲーム理論」で説明できるという。
売り手と買い手の「目的物」が同じであれば、その交渉は価格や付随するサービスによって売買契約を結ぶかどうか買い手が決める。
売買契約は買い手に決定権があるのが正常な形だけれど、売り手には「売らない」というカードが切れる。
「売らない」という意思表示には、買い手に対して合理的な理由を述べなければならず、契約後の売り手側の一方的な解除は認められないし、損害賠償を買い手から請求されてもしかたがない。
「合理的理由」とは、「条約により貴国の会社には本品を売ることができないことが判明した」とか「公序良俗違反に当たると指導を受けた物品のため販売を取りやめた」とか「原料ひっ迫につき、製造不可能で代替品も手当てできない」などの理由であり、「あなたが黒人なので売りたくない」などというのは「合理的理由」とは言えない。
さらに売り手は「宣伝」を打って、買い手の心理を誘うことができる。
ここには誇大広告や虚偽広告というルール違反も散見される。
商売と詐欺は紙一重であると、坂本龍馬は豪語した。
近江商人はそれでも「三方良し」で「あきない(飽きない)」と、末代まで栄える商売を目指した。

反対に、今日でも「押し売り」はルール違反として、反社会行為として契約解除が相当と位置付けられる。(最近では「押し買い」という商法まであるそうな)
一方で、目的物に隠れた瑕疵がある場合、売り手が悪意であれば責任(契約解除、損害賠償)を問われ、売り手が善意でも一定の責任(瑕疵担保責任)を負うのが取引の安全から望ましい。
このような「売買」のルールにのっとり、なおかつゲーム的な部分とは、売り手が買い手に信用される要因や、買い手の欲望に売り手が答えられるかという無形の、不安定な、潜在的な両者にとって不明瞭な相手の内心の状態を取り扱うことだろうか?

買い手の内心ではその「物」を手に入れてやりたいこと、所有欲を満たすこと、誰かに贈って承認されたい欲望などを抱いてその「物」を欲しいと思っている。
売り手にその内心を開陳する買い手もいるが、そうしない者も多くいる。
売り手は「物」を売って、換金することが最終目的である。
その金で、次の品物を仕入れ、または製作し、余剰で事業の拡大、従業員の雇入れ、売り手自身の生活の糧にするのである。

これでほぼ売り手と買い手の動機付けがはっきりしたが、いささかの不均衡がより「売買」をゲームらしくする。
その不均衡とは価値とモノの関係、つまり「等価性」である。
売り手は売り物の価値を熟知しているが、買い手はそうではない。
買い手は多分に「妄想」で物の価値を勝手に決めている。
それが思ったより安ければ「得をした」と思い、購買行動にでるだろう。
反対に高いと思えば「値引き交渉」もしくは「不買行動」にでるだろう。
売り手は売値決定に「欲」を忍ばせる。
原価にどれだけ利潤を乗せるかに血道をあげるのが売り手だ。
しかしその気持ちとはうらはらに、態度では「お安くしてます」「かなり勉強させてもらってます」などと廉価を謳う。
買い手は、馬鹿正直に売り手の言を信じれば、ゲームは売り手の勝ちとなる。
一方で、疑いつつ、より原価に近い販売価格を勝ち取れば買い手の勝ちとなる。
原価割れの売買契約は正当ではない。
明確なルール違反ではないが、商売として次がない。

こういったことが「ゲーム理論」で数学的に記述される。
売り買い二者間だけなら上のモデルで十分だが、世の中は競合他社というライバル関係が存在する。
ジョン・ナッシュが見出した「ナッシュ均衡」はこういったフェーズでのゲーム理論だ。
ナッシュという数学者は天才でラッセル・クロウ主演の『ビューティフル・マインド』という映画で描かれている。
精神を病んでしまうが妻の献身で持ちこたえる感動作だ。
プリンストン大学時代に彼はゲーム理論で頭角を現し、冷戦時代にペンタゴンで東側の暗号解読に関与した。
ナッシュは、第二次世界大戦中に英国のアラン・チューリングという天才数学者を彷彿させる。
チューリングもドイツ海軍の暗号装置「エニグマ」による暗号を解読した業績が有名だが、ナッシュ同様、同性愛者だとうわさされ、やはり心を病んでいた節がある。
毒リンゴを口にして彼は自殺したと言われている。
プログラマブル・コンピュータの理論についてチューリングが先か、フォン・ノイマンが先か争われたがEDVACについてのノイマンの論文が先であることから、ノイマンに軍配が上がった。
しかし論文の精緻さから言えばチューリングに分があった。
コンピュータが「知的」かどうかを判断する「チューリングテスト」は今もなお人工知能(AI)分野で生かされている。
今日、あたしたちの手元にある「ノイマン式コンピュータ」にはチューリングの知能も活かされていると言っても言い過ぎではない。

「売買ゲーム」は「ゲーム理論」で記述できるとしたら、世界経済も記述できるだろう。
そうして経済学は「賭博」から「数学」に変貌して、さらなる欲望の鍵穴となるのだった。
かつてガウスやオイラーが「賭博」を数学で記述したように。

今年のノーベル経済学賞にアメリカのリチャード・セイラー氏(シカゴ大学教授)が輝いた。
セイラー氏は「消費行動」に代表される行動経済学が専門だ。
小売店の「タイムセール」に行列ができる消費行動をうまく使った売り上げアップなどに潜む「行動経済学」を論理だてて一般化したわけだ。
消費行動は個人に身近なものなので、経済学というアカデミックな立場から一気に庶民的なテーマとして取り上げられ、「経済学降臨」の感がある。
アダム・スミスやケインズに飽き飽きした向きには、「一風、変わっているがよく知っている」味付けに食指が伸びるのではなかろうか?

人間は失敗を繰り返すという「事実」にメスを入れて、なぜそうなるのか?どうして改まらないのか?を学問的に掘り下げる。
経済学の名を借りた「行動心理学」の研究成果なのだった。

碁や将棋、チェスでミスを繰り返す人がいる。
あたしもそうだが、どうして痛い目に遭っていながら改まらないのか?
ゲーム理論と行動心理、この二つの相互作用が、経済というゲームに参加する人数分と掛け合わさって、壮大な物語が編まれる。
「世の中はカネ」であり、「あるところから取ってくる」のが経済だとあたしは思っていた。
おそらくそれは間違ってはいないと思うが、残念ながらどうすればゲームに勝てるのか?の答えにはなっていなかった。

買い物で失敗しない秘訣が、成功したと思っても、まんまと売り手に騙されていることだろう。
わかっちゃいるのに「無駄遣い」がやめられない。
本人は「無駄」だとは思っちゃいない。
「今買わないと、今度いつ巡り合えるかわからない」とか「二つ以上買ったら一個当たりが安くなるんで、使わないけど二つも買う」とか、「せっかく来たんやから、なんか買っとこ」など挙げればきりがない、消費行動の無駄。
しかし無駄が経済を回しているのも事実だ。
消費者が財布のひもを固くして、何も買わなければ、経済はたちどころに行き詰まる。
個人にとって無駄でも、社会にとっては無駄ではない。
「ああ、また買っちゃった。でも社会貢献ね」と思えれば、これは消費者の勝ちかもしれない。