このフランスの言葉を知らなくても、その意味するところは、日本人にも理解できる。
つまりは「金持ちには、公共に投資する義務がある」ということだ。
江戸時代に、名士は祭りや隅田の花火大会に散財することを惜しまなかった。
防火設備にも商家などの「お金持ち」が金を出し合って、江戸の町を造っていった。
庶民はそういった恩恵に浴しながら、つましく生きて、楽しんだのだろう。
本来、当時の政府である幕府がやらねばならない公共事業の多くが、町の金持ちにゆだねられていたのである。
また、金持ちの間でも、世間の評判を気にするので、いかに効果的に散財するかを競わされた。

このようなことは洋の東西を問わないらしい。
古代ローマでもアッピア街道が開削されたのは、アッピウスとかいう名士が私財を投げうち、音頭を取ったからで、彼の名が街道に付されて現在も残っている。

フランスで「ノブレス・オブリージュ」が人々の口に上ったのは、やはり貴族たちが、私財を投げうつことで名声を得たいと思ったことが始まりだろう。
領主が領民の人気取りに何かを企画することは、よくあることで、また領民もそれを期待して、領主に忠誠を誓いもする。
稼いだ金を、領民のために散財してくれる領主は、領民に「いいお館様だ」という印象を持つだろう。そして、それが常識になっていく。
ゆえに「稼いだ者は、その金銭を公共のために使わねばならない」という規範として成立し、税とは別のキャッシュフローが生まれたのである。
いわば、お上から民へのお金の流れである。そしてそれは貴族の義務になっていく。それが「ノブレス・オブリージュ」だ。

原始的な「ノブレス・オブリージュ」に類するもので、北米の先住民(主にブリティッシュコロンビア州付近)の間でおこなわれていた「ポトラッチ」がある。
これこそが「富の再分配」であろう。
「贈り物戦争」とでも言うべきか。
交渉の相手に、より良い価値のあるものを惜しげもなく与えたり、衆人の前で高価な物品を破壊するなどもおこなわれ、その潔さで人々から尊敬や承認を得るというものだ。
冠婚葬祭で、その「大盤振る舞い」は盛んにおこなわれ、皆はその恩恵にあずかり、宴会を楽しみ、施主の富を讃えた。

富は人格である。
お金持ちは、懐が深くなくてはならない。
「喜捨」は東洋の仏教文化にも根付いているではないか。

お金持ちは「散財」しよう、そして経済を回そう。貯金は罪悪である。