子育てはたいへんだね。
私には子供がいないから、あまり考えたことがないけれど、収入が少ないうえに、夫婦共働きだと子供と向き合える時間が全くと言っていいほどない。

育休も、まだまだ取りやすい労働環境にないだろう。
正社員ならともかく、派遣労働やパートタイムなら育休のために長期休暇を取ったら次はない。
代わりの者にすげ変わって、椅子取りゲームになるのは目に見えている。
だったら専業主婦で育児に専念できた「昔はよかった」という話にもなる。
あの頃は、お父さんの将来も月給もボーナスも安定していた。
そう、会社が子育て家族を金銭的に面倒をみていたと考えられる。
会社には、社員とその家族のことまで考えて末永く会社で頑張ってもらおうという心配りがあった。
だから今も、転職を繰り返す人間を社会はマイナスイメージでとらえがちだ。
なのに派遣労働の拡大で、会社がいつでも首を切れる労働市場として派遣労働者を目いっぱい使うことに専念して業績をアップさせてきた。
中途採用、転職者が増えていき、一度も会社で勤めたことのないニートさんまで生まれた。

企業間では、グローバルな競争に勝つためには人件費を抑えねばならないという無茶な論理がまかり通る。
なぜなら、賃金と物価の安い外国がその人たちを使って安い良い物を作って日本に売りつけてきたからだ。
これでは日本の製造業は太刀打ちできない。
ますます賃金を抑えるか自前で手当てをつけなくていい派遣労働者を雇うかになっていく。
こうしてスキルもなく、年齢ばかり高い派遣労働者が増えていった。
彼らも人間である。
家族を持ち、豊かな老後を夢見たかった。
結婚して、子供を作って、家を持ちたかった。
それはまったくの幻になってしまい、その日の生活も事欠く有様になってしまった。
一方で、余裕のある家に生まれ、人より良いスタートを切れた人もいた。
いつの時代にもそういう人はいたけれど、今の時代には「相対的貧困」という見方からすると、非常に不公平感がある。
そうした「ちょっといいお家」の子弟は高い学歴とスキルを身に着けて、まんまと正社員の椅子につくことができたりする。
こうして格差は固定されていく。

何が悪かったのだろう?
アベノミクスが悪かったという人もいるが、安倍首相は長いことかかって、なにもなしえなかったという意味で悪かったといえる。
彼は無能だった。
黒田日銀総裁の無能ぶりを見てもよくわかる、
安倍晋三は人を見る目が全くないだけで、何も変えられなかっただけだ。
つまり、だれが首相になっても、この格差社会、少子高齢化社会、社会保障費の増大は避け得なかった。

私なりに考えるに、少子高齢化と格差社会は車の両輪だと思うのだ。
カネがなく、働いても、働いても楽にならない、石川啄木のような人生は、なにも今に始まったことではない。
昔からそういう人生はたくさんころがっていた。
一億総中流という幻想が、日本人を経済に鈍くしたと思う。
だとすれば、かなり昔から現在の日本の姿は読み解けたかもしれない。
そしてこれは、地方と中央の格差でもある。

育児ひとつとってみても、東京都内と、ここ京都府宇治市でのコストは全く違う。
待機児童の問題も、さほどではないのが地方なのだった。
これは東京一極集中が原因だと思われる。
人が多すぎ、なかんずく高給取りの多い東京都だ。
都内は共働きでダブルインカムも多い。
京都からすれば、うらやましいかぎりだ。
すると人が集中する分、育児サービスもインフレを起こす。
一方で都内では夫婦共働きをしないと、子供を満足に育てられないという格差もあるという。
都内にも貧困は存在するからだ。

私には、東京都内で育児をする母親の苦悩が、地方のそれといささか異なるようにも見える。
カネの話ばかりで申し訳ないが、都内の母親は、けっこう高収入だということだ。
すべてがそうだとは言わないが、いい仕事に就いていて、「意識高い系」の「モノ言う母親」に見える。
「保育園落ちた。死ね」事件も都会ならではのもののように思えた。
確かに悲壮感はあるのだが、どこか遠いところの話のように、私には感じられた。
田舎では、ああいう物言いは、まあ、あり得ない。
育児に母親の実父母の協力も得やすいのも田舎ならではだ。
保育園が落ちても幼稚園があるじゃないかという「田舎人」の心ない意見は、都内では通じない。
この育児論には田舎ほど高い位置から物を言うような逆転現象がみられる。
普段抑圧されている田舎人の、ここぞとばかりに都民への反撃に見えるのは私だけだろうか?

幼稚園は教育現場であり、いざ通わせるとなれば、行事などへ親の参加も要求される。
親の身勝手で、我が子に疎外感を感じさせないようにするのが教育だからだ。
こうなると、働きたい母親にとっては、さらに重荷を背負わされることになるのだった。
すると「子育てとキャリアアップは両立できないものと思え。子供のために一時、自分のやりたいことは犠牲にするべきだ」という至極まっとうな、お姑(しゅうとめ)さんが言いそうなことを同年代の田舎の母親から言われる始末だ。
これはまさしく地域間格差だ。
地方ではキャリアアップも高収入も望み薄だが、母と子の濃密な関係が築け、地域との子育て連携も期待でき、ほぼ政府が望んでいる育児の理想形が実現している。
都内の母親も実は、そうしたいのだ。
しかし、現実は厳しく、自分か子供かという二者択一を迫られている。
「自分か子供かの二者択一なら、ただちに子供を選ぶのが母親だ」というのが正論だろう。
私もそう思うし、それができないから子供を作らなかったのだった。
子供を犠牲にしては母親として失格だからだ。
ゆえに、キャリア重視の女は結婚も、子作りもあきらめるべきだと思う。
またそういう女性が多いから、少子高齢化に拍車をかけるのだろう。

そうしてみていくと、アベノミクスやら、安倍晋三の政策のまずさはあんまり関係ないのかもしれない。
問題は自分にあるのである。
まるでチルチルとミチルではないか。
政府や時代のせいにしていては、何も見えてこない。
一度自分の生き方、考え方を疑った方が良い。
正しいと思っていることが、実は身勝手極まりないことを言っていることに気づくだろう。
ひとは何かを成し遂げるときに、何かを犠牲にしているはずだ。
それを犠牲と思わないならそれはそれで構わないが、周りの人や我が子に「何か」を押し付けていることになりはしないかと、視点を変えてみてほしい。

政府は働き方改革で、女性と老人にもっと働いて税金を払えと言っている。
それしか少子高齢化社会の明日がないような言い分だ。
財政改革、行政改革をそっちのけに、国民に負担を押し付けてばかりの無能な安倍内閣だ。
来年の参議院選挙では、自民党は、ふたたび消費増税の論点を封印するのだろうか?