大阪芸大の哲学科教授を名のる純丘曜彰(すみおかてるあき)氏のネット上の書き込み(コラム)が物議を醸している。
今は削除されているらしいが、京都アニメーション放火事件に関して次のような記述があったらしい。
「夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと言うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる」

純丘氏が、現代のアニメーションの作り手と、それらの熱狂的なファンとを同時に揶揄していることが、文面を見れば明らかだ。
「学園祭体験」とはなんぞや?
どうやら、京都アニメーションや、昨今の新海誠作品のような中高生を主人公にした学園もの作品を指して、その狭い学園という閉鎖舞台で息づく感動物語に己を移入し、酔いしれる体験を言うらしい。
それはそのまま、アニメファン(ことにアニオタという人々)が生きている世界が学園であり、年齢層も同じなのだろう。
しかし、京都アニメーションの悲劇に心を痛めて、献花に訪れる人々の年齢層はさまざまであり、30代、40代の人も散見される。
実際に被害に遭われた京アニのクリエーターたちのトップは50代ぐらいの人だったので、その同世代のファンがいてもおかしくはない。

それはそれとして、どうしてこの時期に、ファンの心を逆なでするような書き込みをこの先生はしたのだろうか?
敢えてとしか申し上げられない。
そう「今だから」彼は言いたかったのだ。
純丘氏は「京アニ放火事件の土壌」として、この事件の背景に「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取」した供給側の責任があるとアニメ業界を断罪する。
わたしも、かなり過激な言論だと思ったが、言われてみれば、今回の事件の犯人像も弱者でかつ敗者と呼ばれ、アニメや二次創作を生きる縁(よすが)としていたようだからだ。
また、京アニの犠牲者に花を手向ける人々へのインタビューでも「京アニの作品に助けられた」や「引きこもりだった自分の支えになった」などという言葉が多く聞かれた。
彼らが、一様に、ある種の思春期特有の生きづらさ、弱さを抱えていて、その眼前に同世代の男女が活躍するアニメが放たれたら、それにすがりたくもなろう。
そして夢と現実がないまぜになり、中には、「一線」を超えるファンが出てくることも想像に難くない。
それほど、思春期の青少年はガラスのように脆い心を抱いて生きている。
新海誠や京アニの美しいアニメで、感動的なお話にシンパシーを与えられることは、生きづらい若者の生きる力にもなるのだった。

純丘氏は次のように言う。
「学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験でさえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた」
これは、聞く者によっては耳の痛い言であろう。
ただ、人生経験の少ない、発展途上の青少年にここまで言うか?とも、私などは思うのである。
そんな傷口に塩を塗り込むようなことを、何でもわかっている哲学者が言うなよと。
みんなそうやって、大人になっていくんじゃないか。
それで、これに続けて、この先生は、
「終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく」がそれに乗り遅れたというか、心の病のために、ついていけなかった人たちに対し、
「こういう連中に残された最後の希望は自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ」とか、
「人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見せられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。必ず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにして自殺テロ」と、京アニの犯人に結び付けている。

たしかに、純丘氏の想像に同意できる部分もある。
私の学生時代も受験戦争であったし、理不尽な競争、社会の歪みも、思春期らしい真っすぐさで、青い意見を吐いていた時期もあった。
今の人みたいに、アニメに夢中になることはなかったが、漫画には影響されたことは少なからずあった。
松本零士や手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、ちばてつや、赤塚不二夫などの漫画には、私の人生の指針になったものも少なくない。

ただそれだけで夢と現実をないまぜにして、現実逃避するような入れ込みようはしなかった。
アマチュア無線や戦記物、科学に傾斜していって、だんだん漫画から離れて行ったからかもしれない。
それが、純丘氏の言いたい、普通に大人になっていく、取り残されなかった人たちの平凡な生き方なのだろう。
私は平凡だったのだ。

私や、私のちょっと前の世代は、アニメや漫画に没頭しないまでも、そのあふれる若いエネルギーを思想に、文学に打ち込んだとも聞く。

だから60年安保闘争やヒッピーなんていう若者文化が燃え盛ったのだ。

さすれば、昨今のアニオタのアニメやゲームへの熱の入れようも理解できそうなものだ。
ただ、それは麻薬のようなもので、外へ向かわない、病的な若者を作り出す。そしてその麻薬たるコンテンツを垂れ流すアニメ業界は、純丘氏によれば「麻薬の売人以下」だと断罪された。
美しすぎるアニメや、超現実的なゲーム空間、そして仮想のゲーム仲間の友情、共に戦うすばらしさなど、もはや現実の世界に戻りたくなくなるような充実ぶりである。
こんなものを、弱い人間の前に垂れ流せば、飛びついて、現実世界に戻ろうとは思わないだろう。
もちろん、アニメに助けられたという人も多いのだが…
節度ある人は、いつの時代にもいるわけで、それが大半だと思いたい。
おぼれる人は一握りで、その中に過激派が生まれることは、過去の例を見ても想像がつくが。

純丘氏の危惧は、実は的を射ているのである。
ただ、あまりに直球なので、この京アニの悲劇が冷めやらぬ今、まだ言わないでほしかった。
アニオタは繊細なのだ。
壊れやすいのだ。

純丘氏は次のように締めくくった。
「まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげんな夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すことこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う」


私はね、ここは全く同意できるんです。
たしかにアニメは夢を描きやすい。
しかし現実をしっかり見据えるような作品も描くべきだ。
学園祭の達成感程度の満足に甘んじるのではなく、社会に出てその理不尽に立ち向かい、時には流され、社会の担い手になっていくという現実を直視させる作品につなげて、観る者を導いてほしいとも思うのです。
映画にはそれがあった。
汚いもの、ひどいものを映画は余すところなく披歴し、裏社会や不倫、戦争…そういった、普通に生きていると出会えないものに出会えたのが映画だった。
今のアニメにはそれが少ない。
描こうとしないようにも見える。
すると子供の見るものを大人が楽しんでいる程度の枠でしか、これからも制作されないだろう。
そして大人になりたくない大人が、閉じた世界で惰眠を貪るような作品しか世に出なくなるだろう。

それでは日本はどん詰まりだ。
純丘氏は、その心配事を、あえて言葉を荒らげて気づかせてくれたのだ。