「戦争責任論なんてものが、いくら歯ぎしりし、シャッチョコだちしても、絶望的にぼやけてしまう。どうも一般的に肉体化しないのは、やっぱりミソギのせいだろう」
これは岡本太郎の『沖縄文化論』の一節である。(「神と木と石」の章)

いったい何のことを言っているのか、お分かりになりにくいかもしれない。

「肉体化」と言う言葉が、岡本氏なりの「形而上学的(メタフィジックな)」表現なのである。

ここ沖縄では、「穢れ」に対する神経質なほどのこだわりが、原始日本の魂に共通しているようだ。
「御嶽(うたき)」に対する厳粛なとりおこない。
実生活でも、農業では肥料撒きのあと、女たちは海で執拗に、毛の一本一本まで洗う。
このミソギは、沖縄の冬におこなわれ、やはり普通に寒い。だから女たちは肥料をまきたがらない。
ゆえに収穫が悪い…なんてこともあったようだ。
じゃあ男がやればいいのにと思うが、そこは役割分担が歴然としていて、男は海の仕事、女は陸(おか)の仕事ということに久しくなっているそうな。

「穢れ」に敏感なのは、不潔、不浄から感染症になって一族郎党が全滅する恐怖があるからである。
医学や衛生観念が育っていない原始社会では、ミソギこそが一番の消毒行為なのだった。
それが沖縄の久高島などで根強く残る。
暑い地方ならではの予防策だったのだろう。
ミソギは海水でおこなわれ、それがない場合には清水(しみず)でやり、水商売の店先では「盛り塩」に変化していく。
※「盛り塩」には旅の牛馬が塩を欲しさに立ち止まる、客引きの意味があるという説もあります。

葬式帰りに玄関で塩を体に振りかけるのもその名残とみてよい。
死者は腐敗し、病気の原因になるからだ。

死の穢れはそういうところにあり、風葬や鳥葬によって穢れは除かれていく。
だから鳥は穢れていて、沖縄では、部屋の中に鳥が迷い込んだら、汚(けが)らわしいらしく、ミソギをするのだそうだ。

岡本氏はここに神への「形而上学的アプローチ」があると説く。
アリストテレス学派が「神」を論理的にとらえようと始めたのが形而上学だ。
今や「神学=形而上学」とさえ言われている。
ただ、神を恐れ、敬い、奉ることでは原始宗教の域を出ない。
ここに学問的系統を打ち立て、神を確固たる存在に導く必要があるとしたのが形而上学である。
沖縄の人々は、そのことを教えられずとも、先祖代々から神を自分たちの理論で意味づけていた。
神は生活そのものだ。
神事を生活のリズムに取り込み、意味を持って続ける。
そうすれば、永遠(とわ)に平穏に暮らしていける。
しかし神は気まぐれだ。自然災害や人災を忘れたころに与える。
それを忘れないように、神事に励み、ミソギを絶やさない。
穢れが最も、神を怒らせるのだから。
神の怒りが災いになるという「理論」に、「穢れを除く」という「理論」がくっついて、沖縄の形而上学が構築されていく。
そこには疑問をさしはさむ余地がないのだ。
病院などの消毒の行き届いた、全ステンレス製の「衛生観念」ではなく、土着の「清め」の儀式の方がここでは重いのである。

そして日本の原始宗教にもそれはあり、イザナギ・イザナミの国産みの神話、スサノオの穢れた行いに激怒し高天原から追放するアマテラスの怒り、手水(ちょうず)、御手洗(みたらし)儀式などがあげられるし、岡本氏がいみじくも指摘している、日本人の風呂好きがミソギの一形態であるということも同意できる。
ひと風呂浴びて「ああ生き返った」という御仁は多かろう。
まさに再生の一瞬だ。
岡本氏はユダヤの風呂嫌いと対比しておもしろく述べていた。
私はユダヤ人がそんなに風呂嫌いだとはしらなかった。
というか、キリスト教の人々は概して風呂を好まない。
聖水で清める程度だ。

対してヒンドゥー教の人々は母なるガンジス川で沐浴することをこよなく愛する。
死体や汚物が流れているその川の水を全身で浴びるのだ。
ガンジスの水がすべての穢れを流し去っているのを目の当たりにして、ありがたく沐浴するのだ。
不衛生などと言う考え方は毛頭ない。むしろガンジスは清浄なのだから。

アライグマが泥水でも食べ物を洗うのと同じではないかと言う人は、浅薄である。
アライグマには哲学がない(アライグマに失礼か?)。
アライグマは本能的に水を見たら洗いたくなるのだ。
人は違う。
ガンジスの水に人知を超えた力を見出し、敬意をもってその水を頂くのである。

水はすべてを洗い流してくれるのだった。
手洗い励行には、そんな哲学がある。

そして最初の岡本氏の文章に戻る。
「肉体化」は神の「肉体化」であり、すなわち「国体」を指しているのだろう。
「国体護持」というものを持ち出さないと敗戦を喫した日本人の精神は病んでしまうほど、弱り切っていたからだ。
そのために「ミソギ」が必要だった。
「天皇の戦争責任」を問わないことで、A級戦犯を首くくりに処することでミソギをおこなったのである。
プライドを維持するためのミソギ、体面を保つだけのミソギ…それは今の官僚主義に受け継がれている。