デカルトの『方法序説』を読んでいると、少なからず「自分はいったいなにでできているのか」なんていうテツガク的な問いを発してみたくなる。

肉体と精神に分けられるんじゃないか?とか、「じゃ、精神は心なのか?」とか。
物質的なものが肉体的なものというのは、納得できるとしても、精神については、いきおい硬い岩盤のような問題提起となる。
漢字で「精神」と私たちは書くが、英語なら「spirit」であり、フランス語なら「esprit」いわゆる「エスプリ」となる。
ドイツ語だとそれに当たる語は「Geist(霊)」であり「ポルターガイスト(騒々しい霊)」だ。
漢字の「精神」は「神」なのか?
「God」以外に「心の動き」を表すのが「神」だと「説文解字」では解説している。
「申」に、そもそも「声に出して心の内を述べる」ことだという意味がある。
「申す」のだから、そうだろう。
「申」の象形文字は「電光」つまり「稲妻」がまっすぐに「伸びる」様をあらわしていたらしい。
だから「伸びる」という漢字にも「申」が入っている。
「まっすぐに、正直に述べる」ことが「申」であり「神」なのだった。
すると「精神」はまさに「霊魂」であり「spirit」でもあるのだろう。

とはいえ、「精神」がなにか形のあるものでもなく、ただ人間が作り上げた妄想かもしれないではないか?
「われ思うゆえに吾あり」とは、考える肉体が存在するには、考える主体(吾)があることにつながっているのだろう。
AIには「吾」はないのだ。
データの塊でしかなく、「吾」があるように客観として見えるだけだ。
それは「心」の存在へと演繹されるのかもしれない。
コンピュータは「考えて」はいない。
多くのデータを照らし合わせ、最適なものを選んでいるだけだ。
照合と検証の繰り返しが「ディープラーニング」という演算になっている。

では、精神があるとして、その内訳はどういうものだろうか?
私は「人格」と「理性」だと思うのだ。
人格と理性は互いに牽制しあって、ヒトの精神的な部分を形作っていると私は考えている。
「経験」は「理性」に属する要素だと思っている。
理性は、「推論する性質(能力)」だと本などには書いてあるはずだ。
科学的なものはすなわち「理性的」なのものだと、おおまかには言えるだろう。
理性が科学を作っているといっても言い過ぎではないからだ。
科学を透徹している「論理学」は「哲学」の一分野であり、論理学なしに哲学は語れない。
人が言葉を組み立てることによって、矛盾なく自然現象を述べたりするには「論理学」を共通の規範として養うことが必要なのである。
そう、論理学には「言語」が必須なのだった。

すると、心には言語が必要なのだろうか?
私は、しかし、言葉を話さないとされる動物にもある種のコミュニケーションが存在することを知っているし、クジラの仲間には簡単な文法を持った言語を操る者がいることを聞いたことがある。
ネコやイヌにも「悲しみ」や「恐怖」、「喜び」の心はあると思うし、ヒトだけが心を持つと言うのはおごりなようにも思えるのだった。
ただ、論理立てて心の中身を述べることは人だけに備わった能力と言えるのかもしれない。
いわゆる「論法」を用いてコミュニケーションを取れるのはヒトだけだろう。
つまり「論法」は日常会話、井戸端会議で用いる言語ではなく、ある種の思考や物事の大系を客観的に述べる(記述する)ものだからだ。
そういったことを考える自分がいることを自覚することが「われ思うゆえに吾あり」なのだと。

精神が人格と理性に分かたれることに同意してもらえるだろうか?
理性は人格を縛る。
言い換えれば、人格だけでは、秩序が守れない。
おそらく人格は、かなり自由で奔放な「精神の一部」であり、人格が理性で抑制されていないか、規制されていない人は反社会的であったり、病に陥ったりするのだろうと思う。
幼児は人格のコントロールができないとされる。
大人が幼児を教え導かなくては、人として完成しない。
教育はそのためにある。
教育が「調教」に陥らないように大人は注意せねばならない。
ルソーが『エミール』で言いたかったのはこのことだろうと私は勝手に解釈している。

私は肉体と精神(それは人格と理性だ)でできていると思って、いま、生活している。
それでも私は人格者ではない。
それは理性が足りないからだろう。
科学的見地が足りないからだろう。

ここにきて、ふと思う。
信仰は理性なのだろうか?
科学も理性の門下にあるとすれば、信仰はどこに位置するものなのか?
科学が不分明だったころ、信仰がその代行を果たしていたはずだ。
しかし、信仰は決して科学的ではない。
いや、私たちが科学的だと思って信じていることが、いかほどのものだろうか?
見て来たような論調でいろいろ述べているけれども、それは天動説以上のものだろうか?
私は急に不安になるのである。
ああ神よ。
私は罪深い。
しかしその深さを知らない。