「テセウス」という言葉を最近よく目にする。
『テセウスの船』というドラマが始まったことが関係しているのかもしれない。
私が前に読んだ古いSF小説『太陽風交点』(堀晃:徳間文庫)の中に「迷宮の嵐」という小品があって、その主人公「タキ」が操縦する宇宙船の名前として「テセウス」が採用されている。
books field

テセウスとはギリシア神話に出てくる英雄の名前らしい。
アテナイの王様の名前だそうだ。
先述の『テセウスの船』というドラマは、原作が漫画だそうだが、この表題はそのまま「パラドックス(逆説)」として論理学の分野では有名な話らしい。
ドラマの内容には、私は興味がないが、このパラドックスについては面白いと思った。
つまり、ローマ時代のギリシャ人文筆家プルタルコス(プルタークとも)が次のような話をギリシャ神話から引いたことが始まりらしい。

アテナイ王のテセウスが軍船だか何だか知らないが、巨大な船でクレタ島からアテネに帰ってきたときの話で、その船には三十本の櫂(かい)が備えられていて、たいそう立派な船だったそうだ。
これは、有名なミノタウロス退治の物語であり、巨牛の化け物ミノタウロスが、毎年童貞と処女をそれぞれ七人、いけにえに屠っていたことで困っていたクレタ王のミノスが、アテナイ王のテセウスにミノタウロスを退治してくれと頼んだ話だ。
おそらく聞いたことがある人が多いのではないだろうか?
ミノタウロスはラビリンス(地下迷宮)に幽閉されている。
そこへ、テセウスに恋したミノス王の娘、アリアドネから短剣と赤い糸で作った糸毬を彼が授かって迷宮に挑むのである。
迷宮で迷わないように、糸毬の糸を入り口に結わえ、少しずつほどきながら、テセウスは迷宮に侵入するのだった。
見事、迷宮内でアリアドネの短剣によってミノタウロスを倒したテセウスは、毬からほどいた赤い糸をたどって迷宮から脱出するのである。
恋人同士を結ぶ「赤い糸」のエピソードはここから来ているのかもしれない。
『太陽風交点』の「迷宮の嵐」もラビリンス(名工ダイダロスの作った脱出不可能な迷宮)になぞらえている。
前置きが長くなったが、そのクレタ島からアテネへの帰還に使われた船が「テセウスの船」であり、アリアドネは父のミノスの許しを得ないまま、テセウスとともにアテネに向かうのである。
ミノス王は怒り狂って、テセウスに追手を差し向けるが…

さて、プルタルコスは、「テセウスの船」がその後も伝えられていたそうだが、長い年月の間に元の船の部材は朽ち果て、櫂も含めて新しくなっており、もはや元の「テセウスの船」ではないという者もいるし、いや、それはやはり「テセウスの船」にほかならないという者もいうが、いかに?と問いかけるのである。

こいうことは現代でも似たような話が往々にしてあり、面白い問いかけだと思う。
ただ「だからどうなのだ?」という反発を受けそうだが…

ところで、機械などは、長年使っていると、さまざまな不具合を起こして部品交換を余儀なくされるけれども、しまいには、元の部品はほとんど交換されてしまっていることが少なくない。
こういった機械が、最初に購入したときのものと「違うもの」だとは、普通、言わない。
買い換えたのではなく、だんだん部品が新しいものに置き換わっていったのである。

減価償却やら、所有権の問題など法律的にはどうなのかなどと言い出したらきりがなく、同一性を問うこと自体が、問題を複雑にするので、「問わない」のが常である。
乗用車などは「車台番号」がその車のアイデンティティを示す唯一の指標であり、エンジンが換装されようが、所有者が変わろうが、その車が廃車されるまで「車台番号」で一貫される。
やはり法律上は、権利義務の発生と消滅を明確にせねばならない要請から、こういった管理を行うことになっている。
生物だって、細胞は新陳代謝によって絶えず入れ替わっており、生まれた時と今の私ではまったく細胞レベルで違うものになっているはずなのに、私は私である。
「入れ物」と「中身」が、入れ替え可能な場合、厳密にはそういった問題を生じるが、問題にしなければ、別に困ることもないのである。
ソシュールが、シニフィアンとシニフィエにおける構造主義の話で、これに近い言及をしているが、なるほど、考えれば考えるほど困惑してしまう。
例えば団体がそうだ。
阪神タイガースといえば、どの時代の阪神タイガースについて議論するかで変わってくる。
だって、メンバーが時代時代によって異なるからである。
しかしそれはすべて阪神タイガースなのであって、間違っても読売ジャイアンツではないのである。
日本人はどうか?
江戸時代の日本人も、令和の時代の日本人も同じ日本人であることは論を待たない。
でもかなり違っているだろう?
多分一緒に生活することができないくらいに、我々日本人は変わっているはずだ。
なのに「日本人」であることには違いないのである。決してアメリカ人ではないのである。

つまり「テセウスの船」の逆説はアイデンティティのありかを問う問題であり、それなりに難しい課題を含んでいるのである。

私にはよくわからないのだが、構造主義やポスト構造主義の研究者や評論家は、こういった問題に取り組んでいるらしい。
やれば深みにはまるようで、興味はあるんだけれど…