『アジア辺境論』には「モビリティ」という概念が出てきます。
もちろん内田樹氏が唱えるものです。
※彼のオリジナルの考えかどうか、あたしは知りません。

「移動性」と訳されるのでしょうが、「移動できる能力」と言い換えることもできます。
「モビリティ」が高いとは、定住せず、どこにでも行って生きていけるという能力が高いことを言うようです。
近年、「グローバリズム」という言葉をよく耳にします。
どちらかというと政府や大企業のトップが口にしますね。
内田氏は「モビリティの高さ」と「グローバリズム」は関連していると指摘します。

政府は公教育でグローバルな人材を育て、企業もグローバルな人材を求めます。

そして企業はグローバル化をしないと競争に勝てないとまで言うのです。
世界で勝てる日本企業が多いほど日本の国力は強みを増すから、政府もその方向に国家予算を配分します。
これは正しいことなのだろうか?そう内田氏は疑義を呈するのです。

内田氏の考えはおよそ以下のようです。
「モビリティが高い」人は「自由」なのだ。
「自由」を手にした人は、地球上のどこへでも身軽に出かけ、稼ぐ力を身につけている。
したがって「自由」を手に入れたければ英語を学び、コミュニケーション力と経済力を身につけて世界に羽ばたくことが大事だと子弟に教え込むんです。
「自由」を手に入れられなかった人は「落ちこぼれ」であり、生まれ育った場所にずっと縛り付けられて一生を終えます。
それがいやなら「努力を惜しむな」と国を挙げて青少年と彼らの親の尻を叩きます。
「モビリティの低い人」は「負け組」であって、そのことについて不満を持ってはいけないし、不満なら努力して這い上がれと言うのです。
このようにして格差は拡がり、「モビリティの高い人」は海外のタックスヘイブンに蓄財し、英語を駆使して日本が傾きゃ海外でいい暮らしをすることができるんですね。
反対に「動けぬ人」はどん底ではいつくばって、外国人労働者と職を争い、公的支援で生命をつなぐという立場に陥落します。
はたまた田舎でずっと暮らす老人になっていきます。
いったん災害に遭って、寒村に被害が及び、住めなくなると「便利な街に住まないからだ」と言われ、そんな数人程度の寒村の復興のためにインフラ整備をするのは税金の無駄遣いだと言わんばかりに切り捨てられます。
現に、福島の原発事故や各地の風水害による土砂被害でも政府はそれらしいことを言いたげでした。
「田舎に住むことはリスクが高い」という事実を、「自己責任」で片付けようとしたのです。
政府は一部の「モビリティの高い人」を優遇し、落ちこぼれには冷たくあしらうのです。
こうやって、「〇〇ファースト」という考えが正義のような錯覚を人々に植え付けて、弱者を切り捨てていく。
まるでトランプ大統領と同じじゃないですか…というのが内田氏の意見です。

あたしもだいたい、世間がそのような方向に傾いているなとは思っていました。
そして先般の相模原での知的障害者殺戮事件です。
ああいった「税金泥棒を始末する」という考えが、じつは日本人の心の中に巣くっている。
自分が富者でもないのに、貧しいはずなのに、もっと弱者を見つけては貶め、傷つけて悦に入るという貧困な心。
こういう心をあたしは許せないんです。
そこを内田樹氏は明快に説いてくれたと思います。

どうして日本人は弱者に冷たいのだろうかと。
「おもてなし」の心など本心だろうか?
お金を落としてくれる外国人への「もみ手」に過ぎないのではないか?

一握りのお金持ちの日本人が、日本の危機になると「高跳び」することを奨励している日本政府や財界人が奇妙に思えてなりません。
そんなグローバリズムなど虚妄だ。

日本が危機に瀕したとき、その国を守るのは残された「モビリティの低い日本人」なのですね。
ええ、いいでしょう。
あたしたちで日本を死守しましょう。
そして日本を捨てた人は二度と帰ってこなくてよろしい。
爺と婆で日本を守りましょうぞ。