こうして浮世離れした生活をしていると、世の中で何が起こっているのかまったく関心がない。
古い本を読み、プログラミングなどをちまちま打ち込んで、ああでもないこうでもないとやっているうちに日が暮れて、おばんざいをいそいそと作り出し、お醤油とだしの香りが部屋に満ちると、焼酎の栓を抜きたくなる。

わたしは、運がいいのかもしれない。
車がぶっ飛んできて、殺されることもなく、北のミサイルが頭の上で炸裂することもないからだ。
運の悪い人は、何の罪科(つみとが)もないのに、あしたに「いってらっしゃい」と送り出し、ゆうべには骸(むくろ)となって帰ってくる。
気の毒だが、しかたがない。巡りあわせなのだ。

アバンギャルドとかダダイズムなんていう、世の中をバカにした創作の世界があった。
今もあるのだけれど、もはや手あかのついた表現であり、いまさら「アバンギャルド(前衛的な)」もないもんだ。
太宰治というペンネームが「ダダイズム」からつけられたと現代国語の先生に教わったのが遠い昔。
しかし、それはどうやら先生の虚言であり、太宰という友人の姓からとったとか、「令和」で著名になった万葉集の大宰府からとったと言われているらしいことを、大人になってから知ることになる。
※なお「治(おさむ)」は本名の「津島修治」からとったそうだ。
いずれにせよ、私もダダイズムに生きてやろうと思ってきた。それがこの様(ざま)だ。

ダダイズムが反社会的な運動だとされるのも、私に合っている。
私のポストモダンは「ダダイズム」なのだ。
ダダイズムは第一次世界大戦が発端となっている。
ベトナム戦争がヒッピーを産んだのと似ている。

アンドレ・ブルトンがダダから離脱して、シュルレアリスムが興ると、急速にダダイズムは萎えていく。
そのシュルレアリスムも第二次世界大戦の終焉とともに存在意義を失ってしまった。

そうすると皆さんは「ネオダダ」どうなのだ?とおっしゃるかもしれない。
しかしながら、私は「ネオダダ(反芸術)」はもはや「ダダイズム」と対比して語られるものではないと思っている。
あれは芸術の世界でのみ意味を成す局所的思想であり、広範な世間を覆うような運動ではない。
デカダン(退廃主義)とダダイズムは相補関係にあったが、ネオダダにはそんな「うるさい」ものはないので、芸術のマスターベーションにほかならない。
芸術が個的になり、好き勝手が芸術みたいな「わからん奴はわからんでいい」主義の「ネオダダ」は、それなりに面白いところもあるのだけれど、、見ていてどこか気恥ずかしい気もする。
つまりは、「ネオダダ」に思想性はないと思うのだ。
ダダイズムはれっきとした思想である。

マスターベーションが公然と行われることに抵抗のない人はいないだろう?
あれは隠れていたすものだ。
いくら健康に害がないとか、成人男性(女性も)ならマスターベーションをすることは、なんら不健康なことではないとか持ち上げられても、人前でおおっぴらに語れるものだろうか?

ネオダダもそうなのだ。
ダダイズムは、むしろ無頼を語る「ええかっこ」に見えもする。
ネオダダはそうではない。
私は何を言っているのだ?

私は酒が入ると理屈っぽくなっていけない。
だから一人で飲む。

ああ、もう人が死ぬのは見たくないし聞きたくもない。
できれば、車なんて乗りたくもない。
早々に免許を返上してやってもいい。

山頭火のように生きられたら、どんなにいいだろう?

分け入っても 分け入っても 青い山
 (種田山頭火)