今年ももうすぐ、三月十日と三月十一日を迎えます。
十日は東京大空襲の日、十一日は東日本大震災の日です。

春を迎え、三月は希望に胸が膨らむ月ですが、過去にはそうとばかりは言えない悲しい出来事もありました。
別に三月が特別そういう月ではないかもしれない。
しかしやはり、特別な月なような気もします。


震災は天災ですので、だれの責任ということはないのですが戦災は違う。

アメリカは「絨毯爆撃」を平気でする国です。
ベトナム戦争もそうだった。
特に東洋人を劣った民族だと、かなりのアメリカ人リベラリストが思っている。
それはトランプ大統領も同じだと私は感じている。
ルーズベルト大統領は日本に原爆を投下する命を下して、亡くなってしまったため、後を継いだトルーマン大統領が実際には原爆投下の指示を出した。
トルーマンは投下を見送っても良かったのだ。
(戦後、アイゼンハワー大統領は原爆投下は誤りだったと言っていたと思う)

しかし、ポツダム宣言の受諾の意思をはっきりしない日本の首脳陣に業を煮やして、いとも簡単に原爆を投下させた。
それも二発も。
また、終戦日の前日に大阪にダメ押しの大空襲をやってのけた。
アメリカ人は日本人を殺すことになんら躊躇がない状態にまで、思考を麻痺させていたのだった。
それは人種の異なる、日本人を人間とは思っていないか、放っておけばまた刃を向けられる危険な人種だと思ったのか、恐怖からか、楽しみからか、恨みからか、そして優位に立った者の驕りからか、とにかく日本を焦土にすることこそ「正義」だと信じたのだ。

極限において、このことは繰り返される。
アメリカと日本は根本的に違うのだ。
そこを「人類みな兄弟」みたいな甘い言葉で信じていると、また痛い目にあうだろう。
左翼的な私でさえそう思う。
非暴力の思想は実は、東洋の思想なのだった。
西洋や、ことにキリスト教系の思想には「抑止力」や「先制攻撃」の思想はあっても、「共存共栄」の思想はない。
つねに支配者と被支配者に分かれる。
被支配者は「迷える子羊」であり、「教え」を乞い、「支配されたがる」と勝手に彼らは思い、新天地を開拓し、先住民を殺すか、奴隷にし、はたまた、同じ考えを押し付ける。
そう、日本も戦後はアメリカに「押し付け」られた。
保守派が日本国憲法が「押し付け憲法」だという所以である。

このように、アメリカに完膚なきまでに叩きのめされたのにもかかわらず。
今、安倍政権はアメリカにべったりの追従態度だ。
日米安保という、彼の父祖が作った敗戦国のしがらみを追認する立場であり、そうしなければ日本が生きていけないと信じているのだ。
敗戦国は戦勝国にとって、永遠に敗戦国であるのは歴史が示している。
この立場が逆転するには、再度、戦争を起こし、勝たねばならない。

私がわからないのは、日本の「保守派」が「右翼思想家」と近しいことだ。
日本を愛することはアメリカを敬愛することだと、戦中派ならぜったい言わないことを「保守派」は恥じらいもなく口にする。
そしてトランプにお追従(ついしょう)をするのが国家のためであり、それを妨げる思想は反日思想だといわんばかりである。
鬼畜米英だった彼の国が、いまは同盟、盟友など歯の浮くようなセリフを政治家が口にする。

三月十日の悲劇を忘れたか?
やつらが「Kill Jap!」と言って笑顔で爆弾を落としたのである。
さすがに「極右」は、よくわかっていてアメリカ帝国主義に最後まで抗う覚悟を捨てていない。
戦前日本というか「尊王攘夷」の精神が今も生きている。
だったらこの中途半端な「保守派」をもっと攻撃することだ。
左翼は「小さな槍」でいつも攻撃しているのだが、歯牙にもかけられない。
日本の左翼はとても弱い。
一方で右翼はどうだ?
敵を見誤ってはいないか?
「反共」だけではない「反米」だってあるのだ。
「保守」とは現状維持の思想であり、「今が一番いい」という立場である。
よって、今を変更することは国益に反するから、現政権に反対する勢力はすべて反日だとする思想だ。

私は左翼から物を申しているのだが、右翼にもがんばっていただきたい。
このままではなんだかわからない日本になっていくような気がしてならない。