高橋和巳が『孤立無援の思想』という論考においていみじくも次のようにのべている。
「政治的無関心とみえるもののうちには、そうした根源的な思考が含まれる可能性があり、さらには、意外に、この世界に大変動をもたらす思想というものは、非情勢論的な場に蟄居している逸脱者によって生みだされるものなのである」と。
いっぽうで、「統治に関与しえないものにとっては、情勢論的な処世というものは、およそ意味がないのである」とも書いている。
つまり「疲労している現代の大多数の人間に(情勢論的な余計な知識を)求めるのがそもそも無理である」ということらしい。

政治の中心にいる「役者」はイデオロギーよりも「情勢」に重きをおいた脚本に忠実に、政治家を演じているということか?
しかしながら市井の人々は、日々の暮らしに懸命であり、新聞記事やラジオなどから流れ出る「情報」にのみ耳を傾け、酒場の隅で、あるいは銭湯の湯上りの床几の上で政談にかまびすしい。
彼らにとって「情勢」は、日々の暮らしにはとうてい遠いものなのだった。

学生運動家や左翼活動家が、偉そうに為政者を批判し、よその国の紛争を、さながら当事者のように口角泡を飛ばして議論する姿は、傍目(はため)に滑稽である。
確かにベトナム戦争の折に「べ平連」など集会は、一時熱するものの、潮が引くように集まった人々は散っていった。
つましい家庭に戻り、自分の平安を求めることに専心したのである。

世の中から蟄居して、正義を問う思想家というものが確かにいるかもしれない。
しかし「正義」ほどあやふやな言葉はない。
強い者のおこないはみな「正義」であると、これまではされてきたし、今後もそれは変らないだろう。
強い者が「正しい者」と同値であるなら、私たちは幸せであるはずだ。
しかしそうではないことのほうが多い。
日本は、ことに戦後日本は、民主主義を実践してきて、なおかつ平和を守ってきた。
そこには「情勢論的」なしわざが随所にみられるが、結果オーライでやってきたわけである。
長く日本の舵を取ってきた「55年体制」という政治は、さまざまな矛盾を内包し、左翼活動家に忸怩たる思いをさせ、はたまた市民運動も活発におこなわれもした。
バブル経済が破綻し、平成の世となったころから国民の感情も変わってしまった。
高橋和巳はすでに亡く、彼が予想したかどうか私は知らないが、日本の政治も様変わりした。

ある政治家は「戦後レジームからの脱却」を標榜して政権に返り咲いた。
それは市井の人々にはまったく聞きなれない「呪文」だったが、現状を変えたいという世論には訴えることに成功した。
戦争を知らない世代が政治を執り行う時代になり、国際関係でも武力に頼る考え方が支持されるようになる。
現状を変更しようとする日本を取り巻く国々が現実にあり、過去の日本のおこないを蒸し返す国もある中で、日本の政治は「主権」を脅かされ続けていると国民に訴える。
ものを考えない国民の大半は「けしからん某国」と政府を支持し、強い態度をとれと押す。

「とはいえ総体としての人類は、第一の環境である自然に、そして、第二の自然である人間社会に、それぞれ手を加えつつ順応してゆくのであろう」
と情勢に合わせていくことになるのだと高橋も諦観をもって述べるも、
「これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する」と結んでいる。

私は、この高橋の立場に共感する者だ。