「情勢論」とは「存在論」の対極にある考え方です。
「存在論」は哲学における用語である一方、「情勢論」は政治学で主に用いられます。
高橋和巳も『孤立無援の思想』において「情勢論」を論じていました。

この二つの概念は、定義すると恐ろしく難しいことになるけれど、実例をもとに概観すれば、わりと容易に理解することができます。

たとえばね、日本には平和憲法(日本国憲法)がありますね。
そして「非核三原則(持たない、作らない、持ち込ませない)」というものもある。
その前提で、日米安全保障条約があります。

日本は太平洋戦争に負けて深く反省し、それまでの軍国主義を捨て、戦争を永久に放棄しました。
そして民主主義の国家に生まれ変わったのです。
この平和の原理に立った主義主張が「存在論」の立場と言えます。
まず平和を守ることの「存在」を確かめているわけです。
ところが、世界情勢は予断を許さず、各国の主義主張や利益と損害がぶつかることもしばしばです。
かつての東西冷戦がそうでしたね。
朝鮮戦争やキューバ危機、ベトナム戦争、中東戦争はすべて「東西冷戦」が惹き起こした戦争です。
言うまでもありませんが「共産主義」と「資本主義(自由主義)」の主義主張がぶつかり合ったにらみ合いが「東西冷戦」であります。
何度かのデタント(緊張緩和)を経て、対立を避けては来ましたが、共産主義の崩壊を待つまで冷戦状態は解決しなかった。

このように日本を取り巻く「情勢」がさまざまに変化することに対して、日本政府は同盟国のアメリカ政府の顔色を見つつ、平和憲法の原理を「解釈」で変えていきました。
日本の再軍備ともとれる自衛隊という軍事力の保有です。
またヒロシマ・ナガサキの悲劇を持つ被爆国日本が、非核三原則を堅持すると言いつつ、核兵器禁止条約に批准しないという矛盾をはらんでいるのは「情勢論」の立場からそうなるのです。

原理原則に忠実に国家を運営していくことが、国際情勢によって困難になり、別な方法で原理原則に近づけようとする努力が「情勢論」の立場なんです。

誤解を承知で言えば「場当たり的理論」が「情勢論」です。
ただ単に「場当たり的」なのではなく、多くの識者の議論を経て、とても客観的に「情勢に応じて変える」ほうが国際関係上、意義深く、また、結果的に「平和の維持」につながるのだから「結果オーライ」である…というのが「情勢論」の柔軟性であり、長所です。
核兵器が「抑止力」になるから、保有も許されるという理論はまったく「情勢論」ですね。
いわゆる「オトナの対応」が「情勢論」であると、うがった見方もできましょう。

いっぽうで「存在論」に立脚した「平和論」は純粋に哲学的に、矛盾なく「平和」を論じるのです。
絶対的な「平和」を定義し、その普遍性を説き、いかなる戦いをも封じ込める強い理論です。
そうすると、平和を勝ち取るための戦いという「曲解」が生じてしまう。
共産主義者が言うところの「闘争」でありまた「革命」であります。
こういった「原理主義者」は「聖戦」と称して過激な活動に向かいやすい。
人間にとって「存在論」は危ういものです。
洗脳によって、より過激な、命を賭した破れかぶれの「特攻」をおこなうテロリストを育ててしまう。

するとどうでしょう?
「情勢論」のほうが正しそうに思いませんか?
正義を貫いて、命を捨てるよりも、そこそこで折り合いをつけて平和を維持するほうが「より正義である」と思いませんかね。

わたしは左翼系の集まりのスピーチで、およそこのようなことを述べた記憶があり、その考え方は今も変わっておりません。
反論は多数、いただきました。
それでも、私は「情勢論」を支持します。