福沢諭吉の『学問のすすめ』第六篇に、いわゆる「法の支配」についての論述がある。
私刑への非難、仇討は野蛮であるということを「赤穂浪士の討ち入り」を例に詳しく説いている。
特にその頃の日本では「法の支配」という考え方がなく、徳川幕府の長き治世では武士の特権が認められ、その他の人権はないに等しかった。
「切り捨て御免」や「仇討」が許されて、「私刑」がまかり通る世の中だったのである。

福沢は、欧米列強に比肩されるような開けた国家を目指すには、なにより経世済民(経済)の考えの啓蒙、実学の奨励、法の支配あるいは法治国家であること、さらに男女平等を条件として説いた。

その中で国家、なかんづく政府という機能は、平民の「名代(みょうだい)」としてあるのだという考え方を福沢は強調するのである。
これは「民主主義」の根幹であり、「代議制」を説いていることは言うまでもない。

福沢はそのために平民たる人民の心得を示した。
政府なるものは法人格であり、人ではないゆえに、人(自然人)が動かしていく機関であるというのだ。
だから、得手勝手に人を裁いたり、私刑を加えることは許されず、必ず政府にゆだねるのだと説くのである。
今まさに、賊に襲われ、命を危うくし、財物を奪われようとしているあなたが、取るものもとりあえず、応戦し、なんとか賊を捕縛したあとは、政府の警察機関にゆだねるのである。
捕縛後に、さらに打擲(ちょうちゃく)し懲らしめることは「過剰」であり、反対に暴行罪であなたが罪を問われることになるのだというのだ。
このことは、現代のわれわれにとっては当然の話であるが、江戸時代の人々に説いて回るにはかなりの困難があったのではなかろうか?
だから福沢は、わかりやすく「赤穂浪士」の話を持ち出すのである。
浅野内匠頭長矩が吉良上野介に加えた暴行、あるいは殺人未遂事件は、幕府の沙汰により長矩切腹申し渡しで決着を見た。
それは一応の江戸幕府の「法の支配」によるもので異論はない。
ところが赤穂藩の家臣たち、ことに大石内蔵助らの「吉良上野介憎し」の情念が、御法度の「討ち入り」を犯すことに疑義をさしはさむのである。
「仇討」が許されるといっても「お上」の許諾の上での話であり、吉良邸への乱入狼藉の末、吉良上野介を引きたてて、首級を挙げることは「私刑」の極みであり、野蛮な行為である。
結局、四十七人の浪士がすべて切腹の沙汰を受けるということになって落着したが、こんなことを許していては、吉良家の家臣がさらに赤穂浪士の残党狩りをおこなう可能性もあり、恨みの連鎖を断ち切れないかもしれない。
かようなことは、欧米では許されず、かならず公開の法廷で事の次第を明らかにし、あらかじめ決められた罰条と刑罰を裁判官から受けるものである。
そこに被害者たる平民が参与することはない。

もし「赤穂浪士」が主君の無念を合法的に晴らすのであれば、四十七士の一人一人が、訴状を提出しお裁きを嘆願するべきである。
一人や二人だと、幕府の評定方にもみ消されるかもしれないが、四十七人が次々に申し出たならば、江戸庶民の耳目も集め、幕府としても捨て置けず、いくら徳川綱吉が「バカ殿」であったとしても、吉良上野介を公的に罰することができたかもしれないと福沢は説くのであった。
幕府お抱えの学者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)だって、それを勧めただろう…

まあ、このたとえ話は面白いが、とにかく福沢諭吉は、開けた日本にするための平民の心得を説いたのである。
「国民の法に従うは、政府の作りし法に従うに非ず、自ら作りし法に従うなり」
「国民の法を破るは、政府の作りし法を破るに非ず、自ら作りし法を破るなり」
「その法を破って刑罰を被るは、政府に罰せらるるに非ず、自ら定めし法に由って罰せらるるなり」
と福沢は書いている。
さらに、
「国民たる者は一人にて二人前の役目を勤むるが如し。即ちその一の役目は、自分の名代として政府を立て一国中の悪人を取押えて善人を保護することなり。その二の役目は、固く政府の約束を守りその法に従って保護を受くることなり」
とも書いている。

これは、今、私たちが法を学ぶにあたり、かならず心に留めておくべき言葉だ。
「法の支配」とは、「国家も国民もあまねく、自ら定めた法に従う」ということであり、古くは「マグナカルタ」に由来する。
近代日本は、江戸幕府を倒してやっと、この考えに到達するのである。
※「法の支配」と「法治国家」は厳密には異なるとされているが一般には同義に扱われている。つまりは「法の支配」のもとに国家が運営され、そういった国家を「法治国家」というのだとされる。