三島由紀夫の『金閣寺』と水上勉(「みなかみ」ではなく「みずかみ」だそうだ)の『金閣炎上』そして『五番町夕霧楼』を比較した。
※水上の『雁の寺』も併せて読みたいが、手元になかった。三島の『金閣寺』に近い、禅寺の内情が描かれているらしい。

言わずと知れた、戦後まもなくに起こった「金閣寺放火事件」である。
金閣寺


その犯人である修行僧を「私」の目線で心理描写した三島、客観的事実を積み上げルポルタージュに仕上げた水上、いずれも良くできていたし、両方を読まねばこの事件はわからないとさえ思う。

当時の新聞報道でも、「狂人の犯行」という捉え方であり、当時、金閣寺の修行僧だった林養賢(はやしようけん)を国宝を焼いた「国賊」と罵った。

唯一、当時産経新聞社の記者だった福田定一、のちの司馬遼太郎氏が核心に迫る取材を試みている。

水上は、自身が林養賢と同じように京都の禅寺(相国寺)で修行していた経験もあって、養賢の生い立ち、性格、とりまく人間関係や社会情勢などに広く原因を求めて、なるべく客観的にこの凶行の真相を追求していて、私は好感を持った。
舞台の鹿苑寺金閣も相国寺派の名刹であることを付け加えておく。

一方で、三島由紀夫はこの事件を一人称の独白調で描き切り、読者が犯人に感情移入しやすくなっていて、犯人に同情的な描き方になってしまうが、そこは創作として許されるものだろう。
京都の古刹を統べる仏教界の裏面がはからずも、思春期の修行僧の「私」の目を通じて描かれる。
純真な心が、大人の汚さを許せなくなり、反発していく。
その端緒はまず、自分を偏愛し、過度の期待をかける気の強い母親に向けられた。
あごの、ややしゃくれた「十勝花子」か「山田邦子」をほうふつさせる母の描写は気の強さを表しているかのようだ。
かつて金閣寺で修行し、僧侶となった立派な父を肺の病で亡くし、女手ひとつで「私」を育ててくれた母は、「私」が父の遺志を継いで、金閣寺の住職になることだけを夢見ている。
村ではよそ者の母は、その向こう気の強さで村人とたびたび争い、軋轢(あつれき)を生じていた。
村の寺を頼まれて亡父は守っていたが、亡くなった以上、寺を出るべき「母と私」はしかし、かたくなな母の意志で、後釜の住職が決まらないのをいいことに、寺に住み続けるのだった。
「私」は地元の中学を卒業し、母が無理強いしてやっと金閣寺に修行に入ることができた。
金閣寺と「私」の縁(えにし)は、亡父がかつて、幼い「私」を連れて金閣寺を見学させてもらったことに始まる。
その荘厳さ、美しさは幼子の「私」の目に焼き付き、以後、夢にまで見るような存在になっていく。
むろん、「私」も金閣寺で修行し、立派な僧侶になって、ゆくゆくは金閣寺の住職にまでなってやるという父譲りの志を持って少年期を過ごしたのだった。
その願いが叶おうかという頃、師とする住職は吝嗇(りんしょく)であり、厳しいわりに、自身の身辺は「葷酒山門に入るを許さず」という禅寺の教義を否定する破戒僧だった。
ところで「私」には、生来の障がいがあった。
「吃音(きつおん)」、つまり「どもり」である。
このことで、小さいころからいじめられたり、揶揄(やゆ)されたりした。
金閣寺に入山しても、修行僧仲間からさげすまれるが、たった一人、「私」を差別しない同郷の友、鶴川がいた。
その友と一緒に、師のはからいで大谷大学予科に入学し、机を並べて学ぶが、「私」はやはり孤独感を取り除けなかった。
そんな中、同じように一人ぽつんと過ごしている学友をみつける。
彼は柏木といった。
柏木もまた障がいを抱えていた。「びっこ」だったのだ。
よちよちとしか歩けない彼は、しかし、精神的には自立しており、良家の美少女を囲うほどの「おとな」だったことに「私」は驚かされ、劣等感に苛まれる。
「私」は童貞だった…
鶴川は「私」が柏木と付き合うことを良く思っていなかったようだが、面と向かっては不満を言わなかった。
その鶴川が郷里に帰ったとき、不慮の事故で亡くなってしまう。
「私」が大谷大学の予科に入る前、戦争が終わってアメリカ兵が金閣寺を拝観することも増えてきていたが、ある冬のころ、米兵と若い日本人の女がやってきて、「私」に雪の上に横たわった女の腹を踏みつけろと命じ、「私」は従った。
アメリカ兵は「私」にいくばくかの金を握らせて去っていった。
のちにそのアメリカ兵が「この寺の坊主に、おれの女の腹を踏まれて、女が流産した」などと言いがかりをつけてきたというのだ。
師がうまくとりなして、事なきを得た。
師に借りができてしまった「私」。
「私」は、師が以前から女を囲い、茶屋遊びなどをしていることを知っていて苦々しく思っていた。
さらに、金閣寺は拝観料収入がかなりのもので、戦前・戦中はもとより、戦後になっても訪れる人が後を絶たないほどの名刹だったから、寺務所の金庫には金がうなっていた。
なのに、「私」たち修行僧には雀の涙ほどの小遣いしか与えられず、着るものもお古を使わされていた。
師は学僧に隠れて遊興にふけっている…
そんなことができるのも「金閣寺」が美しいからだ。
なにもかも「金閣寺」がいけないのだ。
しかし、金閣寺は惚れ惚れするほど凛とそこに存在し、父がそうであったように「私」も魅了した。
だれにも愛される国宝「金閣」…
戦争はすべてを破壊し、愛する人、愛される人をことごとく奪った。
「私」の青春も勤労動員で奪われ、学業もおろそかになった。
もはや、師からの信頼も失せ、金閣寺住職への道は閉ざされた。
なのに、師は放蕩し、金閣は美しい。
この矛盾!
かくて、「私」は私財を売り、師を騙して金を作り、学業も打っちゃって、五番町の遊郭に遊んだ。
そして童貞を捨てて覚悟を決めたのだった。
「おれは新聞に載るかもしれない」と相方(客の相手をする遊女)に、「私」は冗談めかして言った。
もとより彼女は、信じていなかった。

すべてに決別する時が来た。
「私」は粛々と「金閣放火」の準備をおこなった。
金閣には火災報知器が備えられていたのに故障したままだった。
師も、寺務を預かる副司(ふうす)も、たるみきっていた。

鹿苑寺金閣は「国宝を有する名刹」として国からもGHQからも優遇されていたのだった。
ダグラス・マッカーサー元帥は、戦前に京都に来たことがあり、この古都の文化財、ことに「金閣」を愛していた。
だから「京都」には空襲をさせなかったという。

敗戦によって180度、価値観が転換し、「私」は逸脱した。
いや、世間が「逸脱」したのだ。
燃え盛る「金閣」に茫然自失していた「私」は我に返り、金閣の裏山となる「左大文字」に駆け上がった。
なけなしの金で購入した「カルモチン」百錠を呑み、ナイフで胸を突いた。

死にきれなかった「私」は「国賊犯罪者」として生きることになった…


水上勉の取材では、林養賢の師、慈海師は吝嗇(りんしょく)だったが、放蕩はしていないとなっていた。
師の女犯(にょぼん)を三島は書いたが、そういうことは慈海師にはなかった。
非常に自他に厳しい慈海師は、質素倹約家であり、寺の収入の管理も自ら行っていた。
たしかに「金閣寺」の拝観収入は莫大であり、ならば寺男や学僧への吝嗇な仕置きは反感の種になったろう。

『五番町夕霧楼』は水上勉が『金閣炎上』の取材と三島の作品からインスピレーションを得て、遊女の視点で、学僧である放火犯との出会いを描いた創作である。
林養賢は、この物語では「櫟田(くぬぎた)正順」となっており、鳳閣寺という「金閣寺」を連想させる架空の寺の学僧になっている。
「夕霧楼」という遊郭での売れっ子遊女の夕子と正順は幼馴染だった。
夕子は正順に恋心を抱いていたが、こういう商売であるので秘めていた。
そこに狒狒爺の西陣織の織元・竹末甚造(竹甚)が夕子をひいきにしており、売れっ子になったのは甚造のおかげだった。ゆくゆくは夕子を妾に引こうという甚造の魂胆だった。
寺の確執、住職や副司の禅と矛盾する行動は、ほぼ三島由紀夫の『金閣寺』を踏襲しており、根深い京都の古刹にはびこる既得権益が暗に描かれている。

かくして放火は現実に行われた。
金閣は完膚なきまでに燃え盛り、刹那の時を迎えた。
吃音の青年、林養賢は父譲りの肺を病んでいたが、大柄で、柔道と尺八、囲碁を愛した。
やや暴力に訴える気質があったようで、そのためか友と言うべき者をほとんど持たなかった。

現在の金閣は、被災後ただちに国の援助で再建されたもので、足利時代創建の頃に近い仕上がりとなっている。

養賢の母は、息子の大罪に自失し、取り調べのために上京した帰りに山陰線の馬堀付近の保津川に、列車のデッキから身を投げて死亡した。
そのことを知らされないまま、養賢は服役し、獄中で肺の病のために死亡するのだった。

一方的に犯人を国賊的狂人とする新聞記事に踊らされず、放火犯「林養賢」の内面に注目した作家が二人もいたことに、私は驚きを禁じ得ない。
金閣と言う、日本人の象徴的建築物、黄金の国「ジパング」を海外に知らしめた建物、永遠の象徴が一夜にして灰燼と化した。

終戦後、創作意欲を掻き立てられる事件であったことに違いない。
私は、戦争に負けた日本のありかたが、吃音の童貞青年をして、反旗を翻させた事件に思えてしかたがなかった。