私が読んできたものをふり返ると、あまり裕福ではない主人公の物語が多い。
名付けるならば「貧乏小説」となろうか?

デラシネ(根無し草)を扱ったものや、ルサンチマン(貧者の妬み)を描いたもの、そして清貧を潔しとしたものなどが多い。

実際、正岡子規は死病にさいなまれ、それでも俳句に生涯を捧げた。島崎藤村は『破戒』で「穢多」という被差別者の苦悩を描き、田山花袋は『田舎教師』で貧乏の家に生まれた志の高い青年の無念を描いた。

戦中戦後はまさに貧困を描くことが文学のテーマであったように思う。
あの偉大なSF作家小松左京でさえ、ルンペン生活を経験したらしい。その貴重な経験が短編『汚れた月』に見事に投射されている。この作品は新潮文庫の『アダムの裔(すえ)』という小松氏の短編集の最後を飾っているので図書館か古書店にでも出かけて手に取られてみてはいかがか。
アダムの裔

『汚れた月』では、どん底のルンペンが、嫌悪されるほどに「王」のようにふるまうゲンという老人が主人公であり、そのそばで同宿している「俺」はゲンに同伴し、振り回され、汚物に満ちた腐臭の存在が世間の畏怖を呼び、神々しいまでに輝くのである。ゲンは汚物を自ら身にまとい、嫌がる女どもに抱き着き、電車という密室で狂態を演じる。そばで「俺」はそのありさまを傍観しているが、ゲンのようにはなれないこともわかっているのだ。そこに麗しい美男と美女のカップルが乗って来る。「俺」はその美丈夫に釘付けになる。自分のみすぼらしい、ゲンほどではないにしても虱を頭にわかし、どどめ色の、元は服であったろう布をまとっている姿に凄まじい劣等感を感じていた。ゲンが美丈夫の連れの女に触ろうとした瞬間、正義感溢れる美丈夫の拳がゲンの眉間に炸裂し、ゲンは吹っ飛んで悶絶するのだった。ゲンは死にはしなかったが、「俺」に復讐を依頼するのであるが…
この「俺」こそは、小松左京の若い頃の写しであるという。

坂口安吾の『白痴』という短編集(新潮文庫)にも、えげつない貧困の、しかしそこには一抹のすがすがしさも感じさせるものがある。
表題作は戦時下に白痴の女を匿(かくま)う、やもめの男(伊沢)が主人公である。焼夷弾が降る中、焼け出されてしまう。「戦争の破壊の巨大な愛情」と表現する様(さま)は生命の極限の美のようにも感ぜられる。
『戦争と一人の女』では「私の身体は私のおもちゃ」と言って憚らない女が、その「おもちゃ」で生涯遊ばずにはいられないとまでいい、戦時下で徴兵されなかった年配の男たちを手玉に取って生活する話だ。やりきれないが、安吾の『堕落論』の実践的小説と言っていいだろう。
安吾の言う「堕ち切ってなお生きる」ことの意味を問うのである。

児童文学でも、最近読んだ『ささぶね船長』が秀逸だった。児童向けであるために、多分に「陽性」に描かれているが、戦災孤児の悲惨な生きざまには、生きることへの執着が、幼い彼らにも生来的にあるのだと信じさせる。大人は絶望していても、子供らは遊びの中で仲間とともに生きるのである。若いということはそう言うことなんだなと、六十を前にした私は思うのだった。こういう作品が絶版のままであるというのはとても残念でならない。
壷井栄の『壷井栄童話集』(新潮文庫)だって、さらりと戦後の貧困を描いている。『あばらやの星』は幼い姉弟が親を亡くし、小豆島であろう町に流れてくる。醤油屋の若い衆たちに「三べん回ってワンと言うたら、この大福もちをやる」と言われ、弟は、ひもじいから犬の真似をするが、姉はしなかった。それを見ていた、同じ醤油屋の年配の作業者の男が、姉を偉いとほめる。そしてその男は二人の育ての親になってくれたのである。
『りんごの袋』も悲しい話だが、私は何度も読んだ。母親は「りんごの袋」を貼る内職をして家計をきりもりしている。幼いケンちゃんは三輪車がほしい。友達はみんな持っているけどケンちゃんは家が貧乏だから買ってもらえない。ケンちゃんの姉のシズはピアノを習いたいけどそれもできないから「紙鍵盤」で練習しているのだ。私も経験がある。この姉弟にはもうひとり兄のジュンがいるのだが、三輪車がもとで兄姉弟がたいへんな事件に巻き込まれてしまうのだった。
貧乏ってくやしいね。この子たちには責任はないのにね。
昨今流行りの「親ガチャ」なんていう言葉を気軽に使う前に、壷井栄の童話を読んでほしい。

吉永小百合の映画で有名になった『キューポラのある街』(早船ちよ、講談社文庫全五巻)は高度成長期に至るまでの、学生運動の華やかなりしころに高校生だった女の子ジュンと弟タカユキの群像ドラマだ。愚連隊や「赤い」学生、在日朝鮮人の北鮮帰還事業、鳩レースに群がる若者と闇の商売、鋳物の街埼玉県川口市を舞台に、古い鋳物師のジュンの父と新しいオートメーションに移行する鋳物会社の軋轢などが矢継ぎ早に展開し、早船ちよの取材力と構成力には舌を巻く。当時新聞をにぎわせていた事柄をパズルをはめ込むようジュンたちに演じさせているのだ。やはり貧しさが根底にあり、新しいことに対応できない親と、新しいことに目がない若者のジェネレーションギャップが動力となって物語が進むのだった。「働きつつ学ぶ」が物語のスローガンのように繰り返される。

いっぽうで、畑山博という遅咲きの芥川賞作家がいる。
彼は、労働者階級からの作家だった。芥川賞に輝いた『いつか汽笛を鳴らして』は、口蓋裂の主人公の幼少期から青年期までの生きざまを描いている。決して裕福ではない家庭に生まれ、なおかつ口蓋裂という特異な外観で差別され、それも在日朝鮮人のガキ大将にまで手ひどく差別されるのだった。いたたまれない主人公の境遇が、ある事件をきっかけに暗い影を落とす。
主人公がやった悪事が、主人公の「あいまい」な一言で、そのガキ大将のせいにされ、学校の教師も校長も朝鮮人のガキ大将を犯人だと決めつけてしまう。彼は普段から素行も良くなく、在日朝鮮人と言うだけでみんな主人公の言動を信じてしまうのだった。いくら冤罪だとガキ大将と親たちが涙ながらに主張しても学校関係者は容れなかった。その夜、ガキ大将は学校の講堂に火を放ち自らも焼け死んだのである。その「十字架」を背負って口蓋裂の主人公は大人になり、小さな金属加工会社に勤め、劣悪な職場環境にあった…
畑山氏の作品は、たいてい、劣悪な職場で、抗議するでもなく流されていく若者を描いたものが多い。無言のルサンチマンなのだろうか?氏の経験が大きく作用しているのは、彼の作品の解説などで明らかだ。

私は、どうやら、こういう作品が好きなようである。