マイケル・バー=ゾウハーの『エニグマ奇襲指令(The Enigma)』を読み終えた。
The Enigma

内藤陳氏が「読まずに死ねるか」で紹介してくれた作品である。
私にはライアルの『深夜プラス1』よりも面白かった。

訳が良かったのもあるかもしれない。
大時代的な感じ、そう「時代劇」のような言い回し。
ヒトラーに「たわけ!」と怒鳴らせる場面とか。
またゾウハーがユダヤ人なのか、ナチへの憎悪がそこかしこにふんだんに表れるのもよかった。
ゲシュタポの陰惨さ、フランスレジスタンスへの拷問が執拗に描かれ、酸鼻を極める。
女子供であっても容赦しないのだ。
また、レジスタンスの中にもナチへ通謀する人間がいる。
疑心暗鬼が、読む者を不安にさせ、ページを次へとめくらせる筆力は大したものだ。

パリの街並みがバルザックやユゴーよろしく、詳細に描かれるのもリアルだ。
主人公の「男爵」ことベルヴォアールは大泥棒で、変装がうまく、怪盗ルパンを彷彿させる。
そして今までの「仕事」で人を殺めたことはなかった。
拳銃を帯びないことを信条としており、かつてナチスの金塊をまんまと国外に盗み出した英雄であり、そのことでイギリス諜報機関に利用されるのだった。
ベルヴォアールには暗い幼少期があった。
彼が「男爵」を名乗り、また人にもそう呼ばれるのには悲しい過去があった。
彼は幼いころに爵位を偽って、貴族が通う学校に入学するが、どういうわけが卑しい出自であることが生徒や教員に明るみになり、「嘘つき」と追われて退学させられるのだった。
「今に見ていろ!」と捨て台詞を投げつけ、ベルヴォアールは学校を後にし、裏稼業に手を染めて生きていくのである。
誰もが認める大泥棒「男爵」の出来上がりだった。

「エニグマ(謎)」というドイツの暗号作成機はこの物語で詳細に語られるが、ドイツらしく非常に精巧な機械である。
外観はタイプライターであり、そこから無数に電線が伸びて、暗号を巧みに作出し、また復号もできるというのだ。
連合国側はこの「エニグマ」を欲しがった。
史実では、すでに第二次世界大戦がはじまる前に、ポーランドの諜報員からイギリスが一台のエニグマを入手していたらしい。そのためにヨーロッパ戦線を有利に戦えたとされている。
だから、イギリスの諜報機関がエニグマを奪取するためにフランス人の泥棒男爵を使うというのは、必要性があったのかどうか?
それは、この物語を読めば「そういうことか」とわかるようになっている。
ゾウハーは史実を踏まえ、そこに創作を盛り込んで良質なエンターテイメントに仕上げたのである。

もう一人の主役ともいうべき、ドイツの大佐、ルドルフ・フォン・ベックがいる。
彼はナチに懐疑的であり、1944年のドイツ占領下のフランスを舞台に、ベックはなぜか「男爵」の企みをつかむ。
ベックはナチ首脳部から、「エニグマ奪取の企て」を阻止するようにパリに派遣されたのだった。
当然、現地で警察権のあるゲシュタポと軋轢を生じるが、ベックの方が上官であるから、彼のやり方で「エニグマ」を守ろうとする。
男爵の計画はことごとく、ベックにつかまれて先回りをされるが、レジスタンスや娼婦やチンピラの助けを借り、偽造書類を作り、変装を駆使して「エニグマ」に近づくのである。
男爵の計画がナチに筒抜けのわけも、終わりの方で明らかになるが、ベックもまた男爵がさし向けたユダヤ人の美女に「ホの字」になり、彼女が女スパイであることをわかりながら、同棲してしまう。
ベックは、実は「男爵」という人物にも惚れていた。
ベックは若いころ、冒険活劇のような世界に身を置きたいという青雲の志を持っていたが、代々軍人の家が許さず、空想するしかなかった。
その世界を体現している「男爵」に一種のあこがれを持っていた。
その葛藤をベックは引きずり、職務や国への忠誠心のはざまで悩み続ける。

ナチスは1944年、行きづまっていた。
ゲーリングは私腹を肥やし、ヒトラーはユダヤ人の虐殺に執念を燃やしていた。
ノルマンディー上陸作戦が始まるまでの数か月間に起こった「エニグマ奪取事件」は架空であるが、史実のように読者に迫ってくる。

まさに「読まずに死ねるか」という内容です。