森田です。
みなさんは松尾芭蕉をご存知でしょう。
俳人ですね。
もっとも芭蕉の時代は「俳諧師」と呼ばれ、れっきとした職業だったのです。

私は昭和歌謡のほかに俳句を趣味としているのですが、学び始めたころ「俳」の字が「人に非ず」と読めるので、いったいどうしてそのような字を使うのか疑問に思ったものです。

この文字には「人に非ず」という意味はなく、「非」は左右に開く扉を表し、コンビでする漫才のような滑稽な話芸をする芸人さんを指すんです。
中国には古来よりそういう芸人さんがいたんですね。

つまり「俳句」は洒脱な、軽妙な文学として日本独自に連歌(和歌の一種)から発達したのです。

松尾芭蕉のことでしたね。
彼は1644年に伊賀上野に生まれます。
お父さんは半農の郷士(武士)だったそうです。
芭蕉は幼名を金作(きんさく)、数え年十二で元服して忠右エ門宗房と名乗ります。
のちに俳諧をするようになってから、俳号として「宗房」を使用していました。
伊賀上野は藤堂藩であり、戦国武将藤堂高虎を中興の祖とする名家です。
宗房(のちの芭蕉)もこの家に仕えます。
藤堂禅吟(良忠)の近習だった十九の宗房は、俳諧に親しむようになります。
二つ上の禅吟とは親しかったのもつかの間、禅吟は二十五で先立ちます。
北村季吟と出会ったのも禅吟が、めあわせたからだと言われます。

松尾宗房が初めて江戸に下ったのは、二十九のときでした。
最初の彼の句集『貝おほひ』を編んで、北野天満宮に納めたのち、師匠の季吟から『埋木』を伝授されて江戸に発ったと言われます。
藤堂本『埋木』は俳諧の作法、奥義をまとめたものだといいます。
そして三年ほど江戸に暮らします。

一度、伊賀上野に帰ってきますが、三十四のときにまた江戸に向かいます。
やはり俳諧は江戸が中心で、そこで生計を立てるのに、小石川にあった水戸藩江戸屋敷に、神田川から水を引く工事の人足管理の仕事を得ます。
小沢卜尺や杉山杉風という知己を頼って、こういった江戸での生活基盤を確立し、談林派と呼ばれる当時の俳壇で活躍する場を得たのでしょう。
宗房は四年ほどそういう生活をつづけました。

さて「芭蕉」という俳号の由来ですが、江戸での生活も安定した三十八歳ごろ、小石川の仮住まいに芭蕉の苗を門人からもらいうけ、それを庭に植えたところよく繁ったそうで、芭蕉の生えた家に住んでいる宗房を、人知れず「芭蕉」と言うようになったと伝わります。
その後深川に引っ越しますが、芭蕉をそこに移植し、宗房の自宅は「芭蕉庵」と呼ばれました。
宗房三十九のとき、望月千春が撰者となった句集『武蔵曲』に「芭蕉」の俳号が見えます。

四十を超えたあたりから、芭蕉の時代になるのです。
およそ知られている芭蕉像は四十以降の姿です。

この時代の四十は人生の晩年です。
死を意識した旅が始まるのです。
人は死に場所を探して旅に出るものだと、小生も思うのです。
しかしそれはトボトボと足取りも重く悔やんで旅立つものではない。
もっと明るい、やりたいことを全うして満足して、どこかの草葉の陰で眠る日が来るのだという高揚感さえ漂わせる旅なのです。
人生を旅にたとえた芭蕉は、四十二歳の最初の旅を『野ざらし紀行』に著します。
四十三歳の時に有名な「古池や 蛙飛び込む水の音」を詠むのでした。
四十四歳になって河合曽良を伴って「鹿島詣」に旅立ちます。
『鹿島紀行』はこのときのものです。
四十五歳で江戸を発って、伊勢、大和、吉野、高野山、須磨、明石と回る紀行文を『笈の小文』にまとめ、帰りの中山道の紀行を『更科紀行』と題して著します。

四十六歳になって奥州の旅に出ます。
河合曽良との二人行の記録は『奥の細道』になって今も読み継がれています。

五十になった芭蕉は病に臥せります。
無理がたたったのかもしれません。
旅の途中でも倒れたこともありました。
人との交流を避け、芭蕉庵の門扉を閉じ、『閉関之説』を著作します。
翌五十一(1694年)で芭蕉は亡くなりました。

芭蕉は生涯独り者だったのだろうか?
これは謎なのですが、彼のそばに女性が一人いました。
寿貞尼という女性です。
記録では、彼女の息子「次郎兵衛」が芭蕉の死に水を取っています。
次郎兵衛が最晩年の芭蕉を世話し、看取ったのです。

この男こそ、芭蕉と寿貞尼との間にできた息子ではないかと伝えられています。
だから俳人や門人でもない次郎兵衛が芭蕉の世話を親身にしたのではないでしょうか?

(文責:森田検索)