百人一首にもでてくる「和泉式部」は西暦1000年ごろの、紫式部や清少納言と同時代を生きた女房で歌人だ。
娘もまた「小式部内侍(こしきぶのないし)」として名を馳せた歌人である。

和泉式部は紫式部にも認められたほどの、和歌の技巧でもって当時は人気の女流歌人だったけれど、その男癖がよろしくないということも、紫式部によって『紫式部日記』の中で暴露されているらしい。
私も『紫式部日記』を、辞書を使いつつ苦労して読んだけれど、どこにそんなこと書いてあったか、もう覚えていない。二十代の頃だ。なお『和泉式部日記』も存在するが、どうやら後の人がでっちあげたものらしい。

あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな (和泉式部)

「あらざらむ」が衝撃的で、「もう先が短い私だから」という意味の「あらざらむ(生きてはいないだろうから)」ではじまるのだった。
「後生だから、もういちど、愛しいあなたに逢うことは叶いませんか」と、すがりつくような思いの一首だ。

和泉式部がなにゆえ、紫式部に「歌はうまいが、下半身がだらしない」とまで言われたのかというと、貴人との交わりが普通じゃなかったらしいからだ。つまり、もてない女の妬みだろうね。才も色も備えた和泉式部に、紫式部は嫉妬したのだ。紫式部は夫の藤原宣孝ひとりにまみえ、浮気はしていない。もっとも宣孝が最初の夫であるともいえないけれども、ふしだらな男女関係はなかったとされている。和泉式部が時の関白、藤原道長の寵愛を受けたようなことを書かれているが、噂以上のものでしかない。
清少納言と並び称される紫式部だが、男性から敬遠されるほどの才女の二人は、性に対して「堅い」女性だったらしい。

ところで、貴人と言うと、平安時代では当然、皇族のことであり、和泉式部は、彼らのなかでも親王(しんのう)クラスの寵愛を受けたらしいから、女官たちから羨望の眼で見られたわけだ。
和泉式部の最初の夫が橘道貞(たちばなのみちさだ)で、この人が「和泉守(いずみのかみ)」だったことと、彼女の父の官位「式部」と合わせて「和泉式部」と通称されるようになったとか。道貞は、のちに陸奥守になったらしいが、この道貞との間に生まれた女の子が小式部内侍であるという。

大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず 天橋立 (小式部内侍)

小式部内侍の母、和泉式部が大江山の向こうの丹後国に住まい、その母を想って、娘が都から詠(うた)ったものだと言われる。

結局、和泉式部は一条帝の中宮、彰子(あきこ、しょうし)に、娘とともに仕えることになるのだが、和泉式部と道貞とは、当時、別居状態であり、婚姻が解消されたような形だった。
おそらくそのころ、和泉式部が、冷泉天皇の息子(第三皇子)為尊(ためたか)親王と恋仲になっていて、浮名を流していたのだろう。夫婦仲が冷え切るのも無理はない。
この身分違いのお付き合いは、波紋を呼び、和泉式部は親元から勘当されてしまうハメになる。
すでに道貞と没交渉であり、離縁というような明確な手続きのない時代だから、そのまま自然に夫婦関係は解消されてしまったに違いない。
しかし、為尊親王は早逝してしまうのだった。
すると和泉式部はその弟君の敦道(あつみち)親王とも関係したようなことが文献に見える。
私は、和泉式部が、すでに為尊親王と敦道親王と3P関係にあったのではなかったかと思っている。
だから世間から「叩かれた」のだろう。

以後、和泉式部は「世紀のタコ足配線女房」として名を残すのであった。

和泉式部は「牛車」のなかで男と「いたした」と取れる和歌も残していて、かなりの「ヤリマン」だったとされる。これを「カーセックスの元祖」だと持ち上げる(?)人もいるが、そのころの牛車というのは密会のための移動ベッドであり、みんながやっていたことだと思う。

それに実名は明かされていないが、『今昔物語集』の「巻二十四第八」に「女、医師の家に行き瘡(かさ)を治して逃ぐる語(かたり)」の段で、ある女御が、陰部のできもの(性病による瘡か?)を恥を忍んで、名を伏せて医師(典薬頭)に診せる話がある。
見れば、女御の歳は三十くらいで、見目麗しく、妻を亡くして久しい医師は、この「高貴な女御」に恋情というか、劣情をもよおし、「お医者さんごっこ」よろしく、そのまま自宅へ言葉巧みに「入院」を勧め、彼女の陰部をたっぷり触(さわ)って「治療」するのだった。さすがに医師だけあって、瘡はみごとに無くなって、病は快方に向かう。
もう「退院」というころ、医師は、ただ帰すのは惜しく思い、彼女の素性を聞き出してから帰してやろうともくろむ。
ところが女御は医師に「先生の牛車で家まで送ってください。私の素性はその中でおいおいお話しますから。これからも通って治療も受けなければいけませんし」と「先手」を打ってきた。
医師のほうが喜んだの、喜ばないのって、有頂天になり、あと数日、うちにいるだろうと油断したところ、そのすきに、女御は逃げてしまった。
女御とて、いくら医師とはいえ、男に恥ずかしい秘密をすべてさらけだしたのであるから、治った以上すべてリセットしたかったはずだ。
彼女も「このセンセ、やばい」と感じ取っていたに違いない。
医師は、逃げられたことに気づくと地団太踏んで悔しがった。こんなことなら、さっさと治療のすきに犯してしまうんだったと。
なんとも、とんでもない医師である。

ざっと、こんな話だったはずだ。

で、この「女御」が和泉式部だと思われているのである。まったく根拠がないのだけれど。
奔放な性の欲求から、男をとっかえひっかえしていたと想像される、恋多き和泉式部なら「さもありなん」というわけだろう。

ところでこの『今昔物語集』の話では「瘡(かさ)つび」という「性病」が出てくる。お話の女御の陰部にできた、陰毛を掻き分けて、やっとみることができたそれは「かさつび」というものだというのだ。
「かさ」は「かさぶた」のそれで「瘡」という漢字を使う。
じゃあ「つび」は何かというと「おまんこ」である。関西では「おめこ」と呼ぶあれだ。
そうすると「かさつび」は「おできのあるおまんこ」という病名になるだろうか?

古語辞典などでは、類語として「あけび」という植物が、元は「あけつび」であり、それが縮まって「あけび」になったなどと書かれている(南方熊楠の説らしい)。あのぱっくり割れたアケビの実がまさに「開いたおまんこ」に似ていて「開けつび」だというのだ。
笑ってしまうほど、わかりやすい。
実際、ポルノ小説でも、古い作品には「あそこ」を「アケビ」に例えたものがあったと記憶している。
そのぬるぬる感と、甘い汁がまさに女の情熱の場所であるということだ。
ビジュアル的にも、典雅に例えられていると思う。

私は、女陰を「つび」あるいは「つぶ」と呼ぶ地方があることを知って、それは「壺(つぼ)」が語源か、同じ系統の言葉ではないかと思っている。
「局(つぼね)」とか、『源氏物語』の「藤壺」という女御の名もそれを彷彿とさせまいか?
「壺」は、口の狭い、内空の容器である。
それは膣や子宮を表しているのではないだろうか?
弥生時代の「甕棺墓(かめかんぼ)」という埋葬形式は、甕(かめ)という容器を子宮に見立てて、死者を母の胎内に帰して、再生を期待するものだという説もあるくらいだ。

和泉式部から、えらく話が飛んでしまった。