志賀直哉の『暗夜行路』に、主人公の時任謙作(ときとうけんさく)が失恋して尾道に滞在する段がある。
兄妹のように育った幼馴染の「愛子」に結婚を申し入れた謙作だったが、愛子の母親(母子家庭だった)や、彼女の兄(謙作の兄と親しい)から遠回しに避けられ、愛子の真意を彼に伝えてくれない。
それどころか、謙作の兄、信行(のぶゆき)や実父からも、彼の結婚に対して消極的な態度を受けるのだった。
愛子は、結局大阪の彼女の兄の知り合いに嫁いだと知らされ、謙作は失意と、周囲への不信感に心を痛める。
読み進めれば、謙作の出自に「問題」があり、実父も信行も謙作に隠していたのだった。
※兄の信行は、弟の謙作がその秘密に、すでに気づいていて、愛子の親族に退けられた意味もそこはかとなく了解済みだろうと誤解していたようで、それは謙作にはまったく寝耳に水のことと、尾道の寓居に届いた信行からの手紙で初めて自分の出自を知るのだった。

その秘密は、この物語には、珍しく「序詞(主人公の追憶)」が付されていることで、彼の出自がほのめかされるという構成になっている。

読者は謙作の放蕩の裏にある、言い得ぬ拘泥に、やきもきさせられながら、この長い、前後編に分かたれた物語に引き込まれていくのである。

志賀直哉が学習院出身で、いわゆる「白樺派」の文壇に属する作家であるということは高校生なら知っている人も多かろう。
たぶん『城の崎にて』とか『十一月三日午後のこと』が、現代国語の教材に使われていたこともあったからだ。
直哉自身、宮城県の銀行家の裕福な家に生まれたものの、すぐに父が東京に栄転になったことからまったくの東京育ちである。
山の手で『暗夜行路』の主人公の幼少期のように「溺愛」される育ち方をしたようだ。
阿川弘之の解説によれば、直哉と実父の間には、埋めがたい対立、嫌悪があったらしい。骨肉の争いともいうべき間柄だったのは、理由として直哉が祖父母に溺愛されて育ったからだという。
それ故か、父と息子の和解をテーマに書いた『和解』という作品もある。

時任謙作はいわゆる「高等遊民」と思しき生活をしている。
「お栄」という祖父の愛人だった四十がらみの女中に、親代わりとして、なにくれとなく世話を焼いてもらって、謙作は放蕩しても生きてゆけた。
そして謙作は小説家を生業としているらしい。とうてい売れそうな作家でもなく、また執筆している姿もほとんど描かれていない。
ただ、親譲りの蔵書や骨董に囲まれて暮らしており、遊興費のためにこれらを売ろうとすることもあった。

年の近い兄信行が、銀行だか保険会社だか忘れたが、とにかく堅い仕事に就いていて、弟を金銭的にも、精神的にも援助していたのも大きい。
謙作と信行は、「君、おまえ」と呼び合う関係なので、年が近いのだろうと推定されるのだ。
信行の父、後で明らかになるが、謙作にとっては育ての父になるのだが、彼からの金銭的な援助(本当は、謙作の母方の祖父からの金だった)が謙作の遊興費になっていたようである。
こういった謙作周辺の設定に、志賀直哉の幼少期から青年期までの実体験が生かされているのではなかろか?
実母が謙作の幼いころに早世したので、祖母に育てられたたというのも、志賀直哉の生い立ちそのものではないか?
そして、すでに亡くなっている彼の祖父という人物が、謙作の人生に重くのしかかってくるのである。
まだ幼かった謙作の母が死に、祖父母の下に引き取られたのだが、その祖父との出会いが「序詞」に触れられている。
幼い謙作が対面した老人は、彼に瞬時に嫌悪感を抱かせた…そしてこの老人が祖父だと紹介され、結局この老人の家に引き取られていくのである。

愛子との結婚が実らなかったことや、西緑(にしみどり)の芸者の登喜子とも、清賓亭のお加代とも深い関係には至らなかったことなども相まって、謙作は恋することをためらうようになる。
女も買ったが、かえって惨めな気持ちになるばかり(殿方ならよくおわかりだろう)。
それでも、寄り添える伴侶が欲しいのは男として当然の生理だろう。
かなり年上だが「お栄」の姿がちらつきもする。
熟しきった「お栄」に劣情を催し、行きつくところ「お栄」を伴侶としたいと思う謙作に、私は同情する。幼き頃から母親の愛情を受けられなかった謙作ならいたしかたあるまい。

私が、井上靖の『しろばんば』とともに、何度かひも解く文庫の一つだ。

ところで、時任謙作の「尾道逗留」の段で、対岸の四国へ金刀比羅宮詣でに発つ場面がある。
連絡船でもちろん多度津まで渡るのだが、多度津から汽車が金刀比羅まで出ている。
今の、JR土讃線と予讃線の元祖である、私鉄だった。
讃岐鉄道と言ったらしい。
ドイツ製の蒸気機関車を早くも導入し、金刀比羅宮参りの客を当て込んだのである。
讃岐鉄道は明治22年(1889)に四国で鉄道の草創期を築いた。もちろん、道後温泉の「坊っちゃん列車」も少し遅れて松山を走ることになる(明治28年)。
明治22年は東海道本線が全開通した年でもあったらしい。
当然謙作も東海道本線で西日本にやってきても不思議はないのだが、物語では謙作が鉄道の長旅に弱いらしいことが触れられてあって、横浜から外国船に乗って、神戸で下船するルートを選んだらしい。
広島側にも鉄道が敷かれていたことが『暗夜行路』に触れられているから、それは山陽鉄道のことであろうし、のちに讃岐鉄道も山陽鉄道に買収されてしまうのだった(明治37年)。
すると、謙作が乗った金刀比羅宮行きの汽車はすでに山陽鉄道が走らせていたものかもしれない。
山陽鉄道132号機関車
(山陽鉄道時代の132号蒸気機関車、Wikipediaより拝借)
この写真の132号機関車はドイツ製(ホーエンツォレルン社)で、極東の小さな鉄道会社の「讃岐鉄道」が七両も購入したので、先方をびっくりさせたというエピソードがある。
1906年には山陽鉄道も国有化され、本機は「国鉄60形」として登録運用されることになった。
謙作の時代は、国鉄や鉄道省という言葉が無く、鉄道院という役所の管轄だったので、「院線」とよび、私鉄と区別していた。
後に鉄道院から鉄道省に格上げになって、「省線」と呼ばれるようになる。
本機は阿川弘之の絵本『きかんしゃやえもん』(岩波書店)の「やえもん」に似ているが「やえもん」は、「国鉄150形(1号機関車)」(英国製)がモデルだそうだ。
『きかんしゃやえもん』の挿絵画家の岡部冬彦は、鹿島参宮鉄道で走っていた蒸気機関車を参考にしたオリジナル車両だと話している。
私は「レールバスのいちろうとはるこ」という乗り物にとても心を動かされたのを覚えている。
京阪バスに乗ったことはあっても「レールバス」という乗り物には乗ったことも見たこともなかったからである。
当時同居していた叔父(父の弟で大学生だった)によれば、まったく普通のバスのタイヤを外して、鉄道の車輪をはめ込んだもので、エンジンで走り、その内装はバスの座席のままになっているのだそうだ。
新たに鉄道車両を買う金のない田舎の鉄道が、バスを改造して鉄路を走らせるようにしたのだとか。

世に「てっちゃん」は多くあれど、なにゆえ、鉄道にあれほど心が惹かれるのか、志賀直哉も例外ではなかったようだ。