島津斉彬は薩摩を維新の原動力になる藩に育て上げた名君である。
彼がいなければ、西郷隆盛も大久保利通も活躍しえなかった。

斉彬は薩摩の地の特異性をよく知り、うまく利用する才覚があった。
錦江湾と桜島を有する薩摩藩は、土地の質があまりよくない。
有名なのはシラス台地だろう。
この火砕流から生じた軽石の多い噴出物のシラスに覆われた薩摩藩の土地は、痩せて、米などは育てられない。
錦江湾自体「噴火湾」といって巨大カルデラ(姶良カルデラ)が陥没した地形である。
サツマイモや桜島大根くらいしか育たない土地で、斉彬はシラスが風化して硬い溶結凝灰岩の岩盤の露出地形をうまく築城や砲台に利用した。
シラスと岩盤の境目に水脈ができ、豊富な湧水を巧みに利用して灌漑や動力を得ていた。
また溶結凝灰岩が「耐火煉瓦」になりうることも発見し、当時の最先端の溶鉱炉たる「反射炉」を蘭学の文献だけで作り上げたのである。
これで大砲の砲身を鋳造することができた。
また水車水力によって、砲身の中ぐり(ドリリング)を行うなど、蒸気機関を持たなかった斉彬の才知が光っている。
こうして、薩摩藩の錦江湾を望む砲台には、巨砲が居並び、薩英戦争を有利に戦えたのである。

何もしなければ欠点だらけの薩摩藩の地勢を斉彬は、長所として家臣に研究させ、自らも考えたのである。

最後に、斉彬は自分の庭園にガス灯を用いた灯籠を備え、最先端の明かりをわがものにしていたという。
横浜にガス灯が灯ったよりも十数年も早くに斉彬は実施していたのだった。

島津斉彬は五十を目の前に伝染病で亡くなったと伝えられるが、その死に不審な点もある。
十四代将軍家茂が二十歳になったばかりで死亡したのも、変と言えば変である。
この二人、暗殺されたのではなかろうか?

太平洋戦争の直前、真珠湾に見立てた錦江湾で航空機を使った雷撃の練習を、山本五十六司令長官率いる海軍航空隊が実施し、見事に奇襲作戦を成功裏に導いたことはあまり知られていない。