王政復古によってブルボン朝の流れをくむルイ十八世が王の座に就いたわけだが、途中、ナポレオン・ボナパルトの返り咲きによって「百日天下」と「ワーテルローの戦いの惨敗」でナポレオンはついにというか、二度とフランスの地を踏むことなくイギリスの手で大西洋の絶海の孤島「セントヘレナ」でその生涯を終えた。
ゆえに、再びルイ十八世の王朝が復帰し、その後、崩御して、彼の弟シャルル十世が即位し1830年まで復古政府は続いたのである。
ルイ十八世は控えめで、議会を重んじ、リシュリュー卿に政治を任せて自らは承認者として君臨した。
リシュリューの政治は、結局、アンシャンレジームの再来(時代錯誤)という市民には不満の溜まるものであった。
つまり、貴族政治の復活であり、ブルジョワジーと市民の不満が募って、後を襲ったシャルル十世の治世でとうとう爆発し、1830年7月の「七月革命」を惹起させる。
シャルル十世が、国民の不満の矛先をそらすために、アルジェリアに侵攻し、アルジェリアをフランスの植民地としたのだが、却って国民の怒りは強まり、国王が議会に選挙権の縮小の勅令を発したことで市民革命に発展したのである(7月27日)。
ドラクロア
このドラクロアの『民衆を導く自由の女神』は「七月革命」を背景にしている。

反政府指導者(反王党派)を主導したブルジョアのジャック・ラフィット(銀行家)が、フランス国民の英雄であるアメリカ独立戦争の功労者ラファイエット将軍を担ぎ出し、彼を革命の偶像として利用し民衆の力を集めたのである。
ラファイエットは、オルレアン公ルイ・フィリップを「国民王」として立てて、処刑を恐れたシャルル十世は国外に逃亡し、革命が成功したと伝えられる。
日本の明治維新と比較すると、将軍家と皇室のかかわりによく似ている。軍人ラファイエットが、新しい王を補佐する形で事態を収拾させたのである。
ラファイエットはいわば「征夷大将軍」であり、自らは政治の表に立たないことで市民の同意を得たのであり、それは首魁ラフィットの指図であろう。

ルイ・フィリップ「国民王」は、自らも投資家であり、ブルジョア側の王として申し分なかった。
英国に端を発した「産業革命」はブルジョアや中産階級を多数生みだし、政治に物言う「有権者」が急速に増えた社会なのである。
ヴィクトル・ユゴーをして「国民王フィリップは優れた政治家だ」と賞賛させたのも、そういう時代背景があった。
ところが、プロレタリアートにとってはなんら生活苦は変りはしなかった。
ブルジョアとプロレタリアートの対決はこれからなのだった。
『レ・ミゼラブル』の終わりの方で描かれているのが、青年活動家マリウス・ポーンメルシーは、モントルイユ市長マドレーヌ(実は、ジャン・バルジャン)の養女コゼットを愛しつつも、革命蜂起に身を投じる場面である。
それは七月革命の翌々年(1832年)の6月に起こった。
「六月暴動」という階級闘争である。
ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』で市民が合唱する『民衆の歌』のシーンは圧巻だ。
劇団四季の同名のミュージカルでもこの場面は、感涙ものである。
もちろん、この歌はミュージカルのために後世の人が作ったもので、当時の人々は知らないはずなのに、それを感じさせない。
そして、この暴動は民衆の敗北で鎮圧され、マリウスは命からがら生き延びたが、同志はことごとく戦死したのだった。

あの暴動から16年になろうとする1848年の二月、ルイ・フィリップ国民王は「二月革命」で退位させられる。
「二月革命」はこれまでの一連の革命とは様変わりし、新左翼と呼ばれる社会主義者たちが参加していた。
フランス三色旗とともに「赤旗」が掲げられたことでもそれがわかる。ただ、ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』の六月暴動のシーンで赤旗が振られていたのは、いささか早すぎないか?
※帝政ロシアが崩壊したロシア革命は1917年であったことから、フランスの赤旗はその嚆矢(こうし)といえよう。赤軍の歌「インターナショナル」はパリ・コンミューンのころ(1871)に歌われ出したようである。

残念ながら「二月革命」がプロレタリアートに勝利をもたらさなかったのは、農民のせいであった。
彼ら農民はナポレオン時代に土地を分配されて財を成していたので、それを「二月革命」で取り上げられて無産者階級に分配されることを嫌ったからである。
かくしてフランスでは赤化は免れ、後のロシアのようにはならなかった。
この年の6月にプロレタリアートが再度蜂起するも多数の犠牲者を出して失敗に終わったのである。
プロレタリアートに加担するブルジョアはいなかったのである。
反対に、この革命で勝ち名乗りを挙げたのはルイ・ナポレオン(ナポレオン三世)であった。
先に述べた、ナポレオン・ボナパルトに恩のある農民たちの後押しもあって彼が大統領の座に着いたのである。

「二月革命」が起こった背景に、1845年から始まった大飢饉がある。このせいで4年続きでジャガイモが不作となり、政治への不満が募っていた。
さらに、産業革命で貧富格差が広まり、階級闘争の種は至るとこに存在したからである。

日曜美術館(5月2日、NHK-Eテレ)で、写実画家ギュスターヴ・クールベを取り上げていたが、彼が活躍した時代がまさにナポレオン三世の治世だった。
傲岸不遜ともいえる態度でのクールベの画業は、当時のサロンには到底受け入れられるものではなく、不遇の毎日だった。
しかし絵のうまさにおいては、認める者も少なくなく、次第に理解者を増やし、クールベの知己も増えていく。
写実派の先鋒を行くクールベがいたからこそ、その後にマネなどの印象派が画壇の一角を担うことができたのだから。
クールベ波1870
(「波」クールベ1870年ごろ。ノルマンディーの海岸にて描かれた波の連作の一)
クールベは言う「私は見えるものしか描かない」と。
しかしその写実には、寓意があり、彼の内面が表現されていた。
のちの「シュールレアリスム」への足掛かりにもなっただろう。
1870年、ナポレオン三世は普仏戦争を企て、敗けてしまい、自身はプロイセンに捕らえられ、そのまま退位となってしまう。
※『最後の授業』(ドーデ―作、『風車小屋だより』所収の短編)にプロイセンに割譲されたアルザス・ロレーヌ地方の初等学校の様子が描かれている)

皇帝不在のフランスは第三共和政と労働者の「パリコミューン」が政権を握った。
クールベはパリコミューンの扇動をし、ナポレオン一世の銅像を「倒せ」とアジったことから、現実に暴徒が台座の塔ごと、像を破壊したので、共和政権がクールベを逮捕し、禁固刑と何億円もの損害賠償金を支払う罪に処した。
刑期を終えたクールベは莫大な損害金を分割払いすべく、スイスに亡命して画業を続けるも、病に倒れて帰らぬ人となってしまった。

その後、パリコミューンがフランス革命史の最後を飾るのだが…それはまたの機会に。