「七里ヶ浜の哀歌」とは、逗子開成中学(旧制)の不良どもが、勝手に学校所有のカッター(手漕ぎボート)で冬の海に繰り出し、遭難して全員絶望となった事件を歌っている。
※この歌は別名「真白き富士の根」とも呼ばれるのは、歌い出しからきている。

1910年(明治43年)の1月23日のことだとされている。

この詞を作った三角錫子(みすみすずこ)は、数学教師で、たまたま体を壊して逗子に転地療養をしていて、開成の系列の女学校「鎌倉女学院」で教鞭をとっていた。
そこで、この事故に遭遇し、鎮魂の歌詞を作ったとされているがそれだけではなかったらしい。

遭難して亡くなった12人の学生の中に、錫子が愛していた人がいたらしい。
十五、六歳の不良学生と、療養中の女教師(36歳ぐらいだったという)の恋慕…
不良と言っても逗子開成中学である。
だれでも行ける学校ではない。
東京の開成中学の兄弟校で、開成で落ちこぼれた学生が飛ばされる学校だとも言われたが、そこそこの家柄の子弟でないと入れまい。
三角錫子は、のちに常盤松女学校を興す人物である。

詳しいことは、これ以上、私は知らない。
この遭難事故の映画も作られたようだが、観る機会もなかった。

しかし、想像を掻き立てる男女関係だ。
昔の男の子も、進んでいたのだなぁ。

さて1910年といえば、その年の6月に、あの「大逆事件」が起こるのだった。
アナーキストの幸徳伝次郎(秋水)らが明治天皇を爆殺しようとしたと疑いを掛けられそのまま死刑になった。
※大逆事件という事件はいくつかあるが、この場合「幸徳事件」を指すことが多い。