ねぇ なにか
おもしろいことないかな
貸本屋の軒先で雨宿り
君は
むずかしい顔をして
立ち読みしながら
本を盗んだ
ぼくの自転車のうしろで
孤立無援の思想を読んだ

春になったら
就職するかなぁ
壁に向かって逆立ちして
笑った
机の上の高橋和巳は
怒った顔して逆さに見える…(以下略)

『孤立無援の唄』(作詞・作曲:森田童子)

この歌詞に出てくる『孤立無援の思想』(高橋和巳)は左翼のバイブルだった。
私は「全共闘世代」ではないので、バブルがはじけたころ(1991年)に再版された岩波の同時代ライブラリーのものを持っている。
確かに難解な本である。
しかし、私はこの本で言葉を知り、綴り方を覚えた。
丁度、会社が事故を起こし、私が一時、京都の左翼系出版社に出向を命じられたころで、いろいろ本を読む機会が増えたのである。
この出版社は、当時私が勤めていた化学会社の会長の姻戚関係の人が経営していたのである。

そんなことよりも高橋和巳である。
この人は京大出身の中国文学者であり、評論家であったり、思想家でもあった。
彼は、吉本隆明に批判的で、私もその点では賛同できた。というより、高橋和巳の受け売りで吉本隆明が「けしからんヤツ」だと思うようになったのが正直なところである。
吉本隆明を理解するには、私の読書量が足りなかった。

この岩波のライブラリーには、表題論文の『孤立無援の思想』のほか、『戦後文学私論』など数点の論文が収められ、とても重厚で、読み応えのある(そう言えば聞こえがいいが)書物である。
野間宏の『真空地帯』を知ったのもこの『戦後文学私論』だった。
ただし『真空地帯』を読もうにも、当時はもはや絶版であり、高橋氏の評では、日本の陸軍の後方部隊の、直接戦闘には関わらない軍人たちの、小役人的悪徳が描写されていて、告発的内容だが不毛な作品であるらしい。
野間宏の経験からくる意欲作には違いないらしい。
戦後文学とは戦前のロマン主義文学からの脱却を狙ったものの、うまくいかなかったというのが高橋氏の論調だったようだ。
また「私小説」から「本格小説」に脱皮しようとして失敗したのが戦後文学であるとも説いた。
私は「本格小説」というカテゴリーを知らず、高橋氏によれば「私小説」の対極にあるものがそれであり、たとえば堀田善衛の『海鳴りの底から』などがそれに当たるという。
『海鳴りの底から』は江戸時代の天草四郎の乱(島原の乱)の殉教を描いた大河小説であり、つまるところ大河小説が「本格小説」の一分野なのだろうということがわかった。
ほかにも私の知らない作家や作品が、俎上に上げられ、高橋氏によってぶった切られていくのが小気味よい。
ユイスマンスの『さかしま』に似た、微に入り細を穿つような論考であった。

森田童子の歌詞にも出てくる『孤立無援の思想』はノンポリに対する痛烈な批判だと思った。
戦後民主主義が広く世間に浸透したかのような錯覚。
その語を口にする人々の立場はさまざまで、受け売りで、言葉だけが独歩していることへのいら立ち、もしくは諦めである。
学生運動のただ中にありながら、戦うために戦う彼らにとって「民主主義」がいかほど理解されていただろうか?
「大衆は複雑で面倒な政治問題について、民主主義の原則が要求するような関心を持っていない」(鈴木幾太郎)という冷めた見方に同意する。
そう言われて「仕方ない」と思う者は、もとよりデモに参加などしないし、さっさと就職して少ない俸給をもらって、つましい生活を送って人生を終えるのだった。
それの何が悪い?と開き直ることで、日本の戦後は成り立っていったのである。
私は、高橋氏の『孤立無援の思想』を難しいとは思わなかったけれども、深く知るには、まだまだ自分が未熟であると悟った。
思想で戦うことは、腕っぷしで戦うより「しんどい」ことなのだということがわかった。
いや、わかっていない。
そんなことを高橋氏が言っているのではない。

ただ、この書物こそは、私が無人島に持っていきたい本であることがはっきりしている。