このあいだ、私の手伝っている塾で、ある生徒から「短調の音楽って、どうして悲しい感じがするのかな?」と訊かれた。
わたしも、そのことは「そういうもんだ」と思って、これまで調べることもなかったが、改めて訊かれると答えられない。
反対に長調の楽曲は前向きで、元気が出る気がするのも自分がそう感じるのには、何か理由があるのだろうか。

調べていくと「うれしいひなまつり」が短調の曲としてよく例に挙げられていることに気づく。
サトウハチローの詞で、河村光陽の作曲とあるけれど、「うれしい」のにどこか悲しいという印象を持つ人も多い。
典型的な和風の短音階(ヨナ(四七)抜き短音階)は哀切を含む印象を与えるが、日本の民謡などではよくある調子であり、かえって、ひな祭りの、おごそかで「はんなり(京ことばで華やかなの意味)」した雰囲気をだしているとも感じられる。

「三人官女」のくだりの哀愁はサトウハチロー氏の姉が嫁ぐ前に不幸にして亡くなった事実が込められているとも解釈されているそうだ。作曲者がそのことを知っていたのか、曲が先にあってサトウ氏が作詞したのか不明なのでなんとも言うことができないが。

しかし戦後間もない、どさくさの苦しい中で、民衆の口に上(のぼ)ったのも短音階の「リンゴの唄」ではなかったか?
この歌は、短音階なのに、勇気と希望を与えたのである。
哀切の中から、一歩踏み出そうという気持ちの高ぶりを惹起(じゃっき)させるには短音階のほうが、シンパシー(共感)とか連帯の強みを与えるのかもしれない。

それは、よく行進曲(マーチ)が長音階で引き込み、途中転調して短音階に移るなどの変化ののち、再び長音階で盛り上げるという手段を用いていることに共通するのかもしれない。
「軍艦マーチ」も「星条旗よ永遠なれ」でも同じである。
日本の戦時歌謡曲には、短音階で哀調を含んだものがけっこうある。ただし「軍歌」では長音階ばかりが選ばれるのは、やはり戦意高揚が目的だからだろう。

明治時代に、音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)が文部省に設けられ、西洋音楽を公教育に採用する端緒を開いたという。
その部門が、長調は元気や健康を表す曲調で、短調は陰気で不健康を表す曲調だとステレオタイプに規定したことが、案外日本人の頭に刷り込まれてしまったのではなかろうか?

音楽の世界を広く眺めると、長調はだいたい陽気で前向きなのは否定しないけれど、マイナーコードが必ずしも陰気で、不健康であるとは思わないだろう。
もちろん、不安定、絶望感、悲壮感などマイナーコードで表現することで、より一層、深みに達するのは間違いないが。
むしろ不協和音であるとか、何かしら伝統から外れた音楽的手法が支持されて広まっていくのが普通で、メジャーなのかマイナーなのかはさほど重要ではないような気がする。
和音の安定感、お決まりのコード進行、たとえばカノン進行が「ヒットの条件」とされ、実際そうであるように、音楽はもともと保守的であり、その中で革新的な要素が隠し味的にほどこされて、聴衆の心をつかむものなのかもしれない。
民族音楽のスパイスを効かせたヒット作品が生まれるのはそう言う時だ。
久保田早紀の「異邦人」などは典型だろう。
さらに、独特な沖縄の音階を本土の人が好むのも、ある種の違和感(エキゾチックな)が心地よいのであろう。
一説に邦楽(雅楽)は、すべて西洋音楽における「短調」であり、そういう音楽に親しんできた日本人のソウルが短調好みにしてしまったというものがある。演歌然り、戦時歌謡しかりである。
和奏法では呂・律旋法という音階があって、「ろれつが回らない」の語源になったものだが、演歌や唱歌、昭和歌謡にこういった旋法を用いたものが多く、その一例が「ヨナ抜き短音階」と呼ばれるものだそうだ。
そうでなければ「中国風」、「インド風」、「琉球風」、「西洋風」に聞こえることになる。

などと、質問してきた高校生と話していると、「結局、好きずきじゃないの?」という結論に落ち着いた。