保阪正康が東條英機の秘書官だった赤松貞夫氏に直接話を訊いたところでは、東條英機という軍人は、本を読まず、すべて実学の中で学んできた陸軍軍人の典型だったという。
つまり「軍人勅諭」が示す精神的空間の中で充足を感じることが幸せであり、軍人の本懐であるというような生きざまらしい。
保阪氏に言わせれば「人間形成が偏頗(へんぱ)なのだ」と。
さらに、こういうタイプの政治家には三つの共通点があるとも指摘する。
・精神論が好き
・妥協は敗北
・事実誤認が当たり前
と、手厳しい。
東條英機はまさにこのタイプであり、彼を首相に頂いた日本は「自省なき国家」として軍国主義一色になっていくのだった。
※保坂氏は安倍晋三首相にも上の三点の特色が現れているとも書いている。

東條が日本の首相になった経緯とは、なんだったのだろう?
東條自身、天皇陛下(裕仁)から勅命を受けて首相を拝命したことは青天の霹靂だったと回想する。
少しさかのぼって昭和十三年を振り返る。
その年の五月に、東條は近衛文麿内閣の陸軍次官(陸軍副大臣?)に任命された。
二・二六事件(昭和十一年)が失敗に終わり、クーデターを主導したとされる陸軍皇道派が鳴りを潜めたころ、統制派の東條が大陸から戻ってきたのだった。
東條は皇道派から要注意人物とされていて、陸軍の中枢から遠ざけられていたらしく、大陸に飛ばされていたのもそのせいだったそうだ。
東條は関東軍を指揮する立場(関東軍参謀長)となり、その間に中国人を多数虐殺したと言われている。
赤松秘書官はその間もずっと東條の秘書だったので、その頃の東條の様子をよく知る人物なのだった。
東條はよく感情的になり、怒鳴りつけることもあったという。
そのくせ、人のうわさを気にするタイプで、器が大きいとはいえない人柄だった。
要職に就いて答弁書を官僚から受け取り、議会で読み上げるとき、難読漢字にはルビが振られることもあったという。
さほど難読でもない漢字でも、東條は読み間違えることがあったらしい。
保阪氏が「陸軍軍人は本を読まない」と断じたことが、東條その人にもうかがえるエピソードだった。

昭和十六年に戻ろう。
このころ、日米の関係は最悪だった。
ルーズベルト大統領は日本に、中国から撤兵せよとか、日独伊三国同盟に参画するなという難題を、コーデル・ハル国務長官を通じて要求していた。
日本政府は、当時、近衛文麿内閣であり、松岡洋右外相から引き継いだ豊田貞次郎外相が外交に当たっていた。
まさに国難を迎えた内閣であった。
東條英機は陸軍大臣に就任しており、かれは陸軍を代表して「アメリカと徹底抗戦」と鼻息が荒かった。
そして日独伊三国同盟に積極的であり、支那撤兵など敗北に等しいことは断じてできないと強行的な態度をとっていた。
対して及川古志郎海相は、陛下が「戦争回避に外交で解決せよ」とお考えを示しておられることから、東條の考え方には賛同できずにおり、それは豊田外相も同じだったし、もとより近衛首相と東條陸相との対立は峻嶮だった。
ついに近衛首相は総辞職を天皇陛下に訴える。
昭和十六年10月17日に、近衛内閣は総辞職したのだった。
次期首相はだれもが東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)陸軍大将であろうと予想したが、内大臣の木戸幸一が陛下の命を受け東條陸相を皇居に呼びつけた。
東條は、陛下から叱責を受けるのだと思って参内したが、意外にも「首相を命ずる」の勅命だった。
東條はにわかには信じられず、あぜんとしていたそうだ。
陸相時代は、米英との戦争も辞さない、戦争しかないと豪語していたものの、「大命降下を受け」いざ首相となると、彼の臆病風がでてきたのか、消極的になるのだった。
それでも、東條としては、これまで積み上げて来た戦争への道筋を転換するわけにはいかないのである。
天皇裕仁は、実は東條に政策転換を期待していたのだった。
彼を首相の要職に就かせ、日本のかじ取りを担わせることで、戦争回避に方向を転換させたかったのだった。
しかし、「大命降下」に舞い上がった東條は、本来、熟考すべき懸案であるはずの「開戦」のアジェンダを「もはや後には引けない」と勝手に考えて戦争へ突っ走るのである。
赤松氏は「海軍が会議でちゃんと反対意見を述べておれば、あるいは結果は変わっていたかもしれない」と述懐する。
私などは、海軍左派を中心に戦争回避、三国同盟不参加を掲げていたと聞いているし、山本五十六連合艦隊司令長官もそうだったと聞いているから、少し驚いた。
保阪氏もいろんな陸軍の生き残りに聞くと、赤松氏と同じような意見を言う人が少なからずあったという。
つまりこういうことかもしれない。
海軍左派などは、陰で戦争回避だ、三国同盟など結ぶべきでないと叫んでいたが、御前会議や内閣の会議でははっきりと反対発言をしなかったのではなかったか?
陸軍主導の雰囲気で、あからさまに反対意見を述べられなかったのではなかったか?
及川古志郎海相は「風見鶏」のあだ名があるほど、ころころ意見を変える大臣だったそうだ。
そうであるならば、海軍も戦争責任の「不作為」責任があったことになる。

かくして東條内閣が成立したが、総理は内閣人事を密室でおこなった。
すべて自分のイエスマンで周囲を固めたのである。
太平洋戦争・日中戦争の行く末は、東條人事で決まってしまった…
三年八か月におよぶ大戦は、ほとんどが日本の敗退で終わった。
真珠湾奇襲からミッドウェー海戦敗北までの六ヵ月程度しか海軍の勝利はなく、陸軍もインパールの敗走で致命的になる。
ガダルカナルの死闘は日本の陸海軍の連携の悪さを徹底的に露呈させた。
サイパン陥落により海軍機動部隊が壊滅し、日本の進退が極まったことで、やっと東條内閣は総辞職に追い込まれ、敗戦処理内閣が成立するが時期すでに遅しだった。

それでも昭和二十年の八月十五日まで陸軍の戦争継続派を東條英機は支持し、竹やりで一億層玉砕を叫んでいたのである。

(参考文献:『昭和の怪物 七つの謎』(保阪正康、講談社現代新書))