長岡半太郎(1865~1950)は日本の物理学の嚆矢(こうし)となる人物である。
原子モデルとしてラザフォードやボーアよりも早く、土星型モデルを提唱した。
それまでのトムソンの「ぶどうパンモデル」よりも原子核(この時代は、まだ陽子や中性子が発見されていない)と電子を分離している点で優れていた。

長岡は、陽電気を帯びた原子核が土星で、それに釣り合う負電荷を帯びた電子軌道を土星のリングに例えたのである。
彼が、日本の近代化の黎明期に、このような新進の発想を持ち得たのはなぜだろうか?
長岡は根っからの理学者志望というわけではなく、英語や漢籍に進もうとしていたようであるが、東大理学部(東大は東京大学、帝大、東京帝大、戦後ふたたび東京大学と名を変える)に進んで、田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)などの科学者から薫陶を受け、地球物理の方面に進むことにしたようだ。
だから長岡の後輩に寺田寅彦や湯川秀樹がいるのである。

長岡が帝大教授職にあるとき、ドイツに留学してあの著名なボルツマンの下で研究したという。
これは、かなりすごいことだと言っていい。
ルードヴィヒ・ボルツマンといえば、統計力学の父とされている科学者だ。
彼の名を取ったボルツマン定数は統計力学において状態数とエントロピーを関係づける重要な定数である。
マクスウェルが気体分子運動論をぶちあげたとき、その理論をボルツマンの恩師シュテファンとともに統計力学という手法で推し進め、シュテファン・ボルツマンの法則を見出すに至った。

それはそれとして、我らが長岡半太郎について語ろう。
彼は大阪大学の創始に大いに貢献しているのだった(阪大初代学長)。
東京帝大だけを最高学府にしていては学問の発展によろしくないということで、阪大のほか、東北大学などの創始に尽力したと言われる。
そして1897年に「帝大」は京都帝大と区別するために「東京帝大」と改名されたのである(東京大学という名称は以前からあったが「帝国」をつけて私立との違いを明確にしたのだろう)。

長岡半太郎の長男の治男(はるお)は理化学研究所の理事を務めていたし、次男正男(まさお)は日本光学(現ニコン)の社長だったそうだ。
この日本光学は三菱財閥の資本を受けて創立した経緯があり、当時の軍の光学機器(照準器、双眼鏡、狙撃スコープ)を製作していた。
ほかにも、半太郎の多くの子息たちが理工学の方面で活躍しているようである。

長岡半太郎が師と仰いだ田中舘愛橘について少し。
彼は、南部藩修文所(藩校のこと)に学び、「平民宰相」こと原敬(はらたかし)と同窓だったそうだ。
愛橘は慶応義塾で英語を学ぶも、義塾の高い学費が払えず退学となる。
彼の進路には紆余曲折があったが東京英語学校に進み、そこで科学的な考え方に目覚めたという。
東京開成学校予科で物理を学んで物理学者の道に進むようになったらしい。
長岡もそうだが愛橘も山川健次郎(帝大総長、九州帝大総長、京都帝大総長歴任)の薫陶を受けている。
だとするならば、山川健次郎こそが、日本の物理学の父といえるかもしれない。
なぜなら日本人初の物理学教授であり、理学博士だからだ。
山川健次郎は会津藩士で、白虎隊の隊士の生き残りだったという。
また日本人で初めてカレーライスを食べた人物と言い伝えられているそうだ。

いずれにせよ、長岡半太郎を語るときに山川健次郎と田中舘愛橘は外せない。

長岡半太郎に話を戻すが、彼の主な業績は「磁歪(じわい)の研究」であろうか。
アマチュア無線技士の国家試験にも「磁歪」や「ビラリ現象」が出題されたことがある。
地球物理学では、地磁気の局地変化などは磁歪現象によっておこると言われる。
磁歪は字のごとく「磁気によるひずみ現象」である。
磁歪現象は、熱量の単位にもなったジュールによって発見された。
長岡の磁歪の研究成果は1900年にパリで開かれた万国物理学会で発表されたという。
1922年にあのアインシュタインが日本を訪れたが、その際、長岡は宮中で相対性理論についての講話をおこなったそうだ。

最初に触れた長岡の「土星型原子モデル」だが、その着想はマクスウェルが唱えた「土星の環が安定に存在している理由」に発するという。
ただし、長岡のモデルでは、電子は電磁波を放ってエネルギーを喪失し、しだいに原子核に吸収されてしまうという欠点についての解消はされなかった。
その解消につき、ニルス・ボーアの出現を待たねばならなかったことについて以前に書いた。

長岡半太郎が生涯、信じて疑わなかったことに「水銀還金」術がある。
これは水銀と金が周期表で隣り合わせ(金の原子番号79、水銀の原子番号80)であることから、水銀から陽子(当時は水素元子と呼んでいた)を一つ除けば金になるという理論である。
これこそ「錬金術」だと、当時は理化学研究所を中心に大々的に信じられていたらしい。
しかし、何度挑戦しても錬金術は成功しなかった。
次第に、長岡の考え方に誤りがある事に他の学者も気づくのだが、当時の重鎮だった長岡に面と向かって正す人はいなかったのである。

いずれにせよ、長岡半太郎が当時、国内外において名を馳せた物理学者だったことは間違いない。