石原莞爾(いしはらかんじ:1889~1949)は大東亜戦争時の陸軍軍人であり、日中戦争の主導をしながら、東條英機陸相(のちに首相)と激しく対立し、東條暗殺に関わった疑いのある男である。
明晰な頭脳で理論を展開する石原と、感情的で精神論に頼る東條とは対照的だった。
ゆえに、嫉妬深い東條は、石原を蛇蝎の如く嫌っていたのである。

石原は、軍人である前に思想家であった。
したがってその門下の人物や、彼に賛同する人物を多数従えていたことが、殊(こと)に東條を不安にさせたのである。
石原莞爾は「東亜連盟」という政治団体を主宰していた。
さまざまに評価は分かれるが、「東亜連盟」は右翼団体の一種であり「国家社会主義」を標榜するものと理解されている。
近衛文麿らが唱えた「大東亜共栄圏構想」と似ているが非なるものだとも言われる。

関東軍の参謀だった石原は、柳条湖事件を企(くわだ)て、この満鉄爆破テロ行為を「中国人による工作」に見せかけて満州事変の勃発(1931)に至らしめたのだった。
当時の外相幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)は局地紛争と位置づけ、不拡大方針を打ち出した。
石原も異論はなかったが、国内では「桜会」を興した参謀本部支那課の長勇(ちょういさむ)大尉らが幣原外相の対中政策に不満を抱き、濱口雄幸内閣転覆を狙ったクーデターを計画した(三月、十月事件)。
このクーデターは宇垣一成陸相を首班指名することが最終目的だったが、宇垣が応じなかったので未遂に終わるも、このようなくすぶりが二・二六事件へとつながっていくのだった。

日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(1937.7)は、日本軍が盧溝橋付近で中国の許可を得て演習をおこなっていたが、どういうわけか周辺に駐屯していた中国軍(中国共産党系)が実弾発砲してきたので、小競り合いになってしまったものである。
この事件につき、石原は事態が大きくならないように話し合いで解決したがったが、その後も中国側の戦闘行為が止まなかったことと、日本の大本営が過剰に反応して「戦争勃発だ」とばかりに中国軍に厳しく応戦して鎮圧せよと命じたので、とうとう日中戦争に発展してしまうのである。
中国政府は南京の蒋介石率いる国民党軍と中国共産党軍「のちの八路軍」に別れようとしていたこともあり、命令系統が分断されていたらしい。
※西安事件(1936暮れ)で第二次国共合作(国民党と共産党の共同)の結果翌年8月に毛沢東率いる「紅軍」は「八路軍」と名を変える。

石原はこのころより、自説の「日中不拡大方針」を表明して、対中戦争は最小限に押しとどめて、中国政府(蒋介石の政府)と和平協定を結んで「東亜連盟」に発展させようともくろんでしたようだ。
関東軍参謀本部長の石原はそのことで、部下の武藤章課長と対立し、関東軍の中で孤立していく。
帝国陸軍は、中支派遣軍を組織して対中作戦を遂行しており、南京攻略もその一環だった。
南京虐殺のあった南京事件では、派遣軍司令に松井石根(まついいわね)大将を置き、朝香宮鳩彦王参謀長の下で主任参謀として長勇が虐殺を主導したとされる。
長は、戦時国際法を軽視する傾向があり、非戦闘員への暴虐行為にためらいがなかったらしい。このことは松井大将から自制を促される始末だったという。
※長は、その後、太平洋戦争末期の沖縄戦で失策し自軍を壊滅に追い込んだため、摩文仁(まぶに)で牛島満大将とともに割腹自決を遂げたことが部下の八原博通(はやらひろみち)大佐によって伝わっている。
※松井石根大将は、極東軍事裁判で死刑判決を受けて執行されたが、その罪状は南京虐殺を主導したことになっている。しかし、松井は日中提携によるアジア保全を唱えた明治期の陸軍軍人、荒尾精(あらおせい)や川上操六の影響を強く受けており、南京虐殺の結果は松井の本意ではなく、彼の部下統率が甘かった結果の責任と言うべきだろう。

このように中国大陸では、石原莞爾の理想とかけ離れた戦闘が続き、信頼を置いていた蒋介石とも距離がますます遠ざかっていく結果になった。
思い起こせば1927年に石原が著した『現在及び将来に於ける日本の国防』に、彼の持論である「満蒙領有論」の構想が見られたのだった。
それによれば、関東軍によって満蒙地域を占領することで日本国内の諸問題(人口問題、雇用問題、資源問題など)を解決しうるのだという趣旨だった。
奇しくも、翌1928年(昭和3年)に石原は関東軍の参謀本部作戦本部長に就任するが、昭和12年には関東軍の参謀副長に降格させられてしまう。
これは陸大先輩の東條が、石原憎さのあまりに工作したのだと伝えらえる。
※東條は板垣征四郎とともに、石原莞爾とも同じ一夕会(いっせきかい)のメンバーだった(昭和5年ごろ)。東條が石原より4年先輩になるらしい。

東條は日中戦争拡大派であり、石原は「不拡大」を強く主張していたことも原因としてあるだろう。
石原は当初より、東條に対して「思想も意見もない人物」と、こき下ろしており、「私には、いささかでも思想がある」と周囲に豪語していたという。
東條と言う人は、戦争に勝つことしか目的がなく「子供の喧嘩」以上のものはない男だったと保阪正康氏は評する。
よっていったん始まった日中戦争に対しても、とことん相手を潰すまで勝たないと気が済まない性分だったので、対中和平交渉案など毛頭なかった。
※東條を慕う人が陸軍軍人に多かったのは、部下に対してその生い立ちや経歴を詳細に東條が暗記して、部下に寄り添うような気配りの上司だったからだという。部下の尉官たちが陸大を受験するといえば、そのために任務の負担を減らし勉強に注力できるように配慮もしたそうだ。部下との距離感の近い上官だったと伝えらえる。反対に石原のように、自説を曲げず噛みついてくる後輩には厳しく対したのである。

話がそれたが、石原莞爾の思想の源流は、仙台時代にあったらしい。
彼は仙台陸軍地方幼年学校を経て、東京に出て陸軍中央幼年学校に入学し『妙法蓮華経』(田中智学)に出会う。
彼の思想の根底には、朝敵庄内藩の悲哀や、日蓮宗の教えがあったということだ。
陸軍士官学校卒業後に旧盛岡藩家老で新政府外交官を務めていた南部次郎に師事し「アジア主義」に目覚めるのである。
石原の「東亜連盟」とは日蓮宗とアジア主義の習合思想によるものだったのである。

石原は、自分の考えと乖離して、横暴を極める関東軍に嫌気がさしてしまう。
石原の考えでは、満州建国は平和のための礎(いしづえ)にすぎず、大陸を戦禍に見舞わせるつもりはまったくなかったのである。
そして来(きた)るべく「(対米)最終戦争」に備える「東亜連盟」を構築することが先決だった。
資源のない日本列島だけでは、このまま先細りであり、資源問題や人口問題、労働問題などの諸問題を解決するには大陸進出は止むを得ない事業であり、満州国建国は日本にとって必然だった。
そうして、蒋介石政府と中国大陸を分け合い、対ソ、対米に互いに備えようというのが石原の偽らざる思想だったのである。
一方で、東條が太平洋戦争を主導し、「大東亜共栄圏構想」を天皇陛下の名のもとに推し進めることは、単に資源欲しさだけの「我欲」であり、石原の言う「アジア主義」からは程遠い、ヨーロッパ覇権主義の植民地政策、搾取にすぎないと喝破している。
これではいつまでたっても世界平和が夢物語になってしまうと石原は危惧するのだった。
石原は軍人であるが、戦争がもたらす不平等、不安を最小限にして、全世界の人々が平和裏に暮らせる世の中を追求していたのであった。
こういう考えを持った陸軍軍人は少なくなかったという。
「マレーの虎」の異名を持った山下奉文(ともゆき)大将もそうだった。
戦後、絞首刑の前に、山下は「軍人が世の中を作ってはいけない」「女性こそ新しい政治に参画すべきだ」「科学技術の進歩が平和をもたらす」と遺言を残していった。

このように書くと、かなり「魅力的な人物」のように石原莞爾が見えるが、彼の評価は今の日本で大きく分かれるのである。
東條英機が日本を誤った方向に導いて、泥沼の戦争に陥っていることに石原が危機感をもっていたことは事実である。
それは、石原の部下や同期、東亜連盟の賛同者や同志と言われる人々も同じ気持であったし、海軍左派と呼ばれる人、天皇陛下及び皇族の面々、近衛文麿前首相や鈴木貫太郎らの終戦処理派などは、なんとか東條英機を首相の座から降ろしたいと思っていた。
そういう矢先に、三笠宮支那派遣軍司令長官の同期、津野田知重陸軍少佐と、石原莞爾の部下、今田新太郎と知己の牛島辰熊という柔術家(警視庁師範)、木村政彦(柔術家)らが謀って、東條暗殺を企ててしまった。
しかし、決行直前に勅命によって、東條は総辞職を余儀なくされたのである。
表向きの理由が、サイパン陥落の責めを負ってのことだたったことはよく知られていることだ。

津野田は、その後、逮捕されるが、陸軍を免官されるにとどまり、釈放される。
石原にも嫌疑がかかるが、もともと彼は「暗殺計画」を主導していないし、証拠不十分で逮捕には至らなかった。
結局、津野田たちが勝手にしでかしたことと片付けられ、事件が未遂に終わったこと、そしてなによりも東條がもはや政界から遠ざかったことで承継政府としても津野田に宥恕(ゆうじょ)の念があったのかもしれない。
ところで津野田たちのたくらみが官憲に知れたのは、三笠宮殿下が漏らしたからだと言い伝えられている。
殿下が、日ごろから石原の考えへの賛同はあったものの、津野田が殿下に事前に打ち明けた東條暗殺という暴力的な方法については同意できなかったからではなかったか?

満州国に関して、東條は「日本が支配するべき国家だ」と決めつけ、石原は「満州国は独立国家であり、日本と共栄していく国家」だと言ってはばからない。
両者はどこまでいっても歩み寄るところはみじんもなかった。

太平洋戦争に突入させた日本へのアメリカの要求がいくつか「ハル・ノート」に記されているが、その中に「中国からの撤兵」がある。
※コーデル・ハル米国務長官の意見書を「ハル・ノート」といい、この文書の取り扱い、つまり大統領の国書なのか、国務長官の私的な文書なのかで内容の軽重判断を日本の外交筋が誤ったのだと言われる。

この「中国から」という言葉の解釈に「中国大陸から」なのか、「満州まで兵を引くことか」の二種類があったという。
アメリカとしては満州国も認めたくないはずなので、「中国大陸からの完全撤退」を日本に要求するものであり、満州国を中国政府に返還させることも含んでいるというのが普通だと思うが、当時の日本政府、ことに石原莞爾などは「満州は日本の一部」だと解釈して、アメリカは「満州」を認めているのだとした。
石原の中では「満州は独立国家」であると同時に、「満州は日本の主権が及ぶところ」だという解釈も併存していたようである。
石原の「世界最終戦争論」においては、世界は米国覇権(南北米大陸)と欧州覇権、ソ連、そして日本とアジア諸国が手を結んだ連盟が世界を分断し、武力で拮抗するだろうと考えていた。
そして当面の敵であるアメリカとの覇権争いで勝つ「大東亜戦争」は彼の言う「世界最終戦争」の前哨戦であるという位置づけだった。
保阪正康氏は、石原に「大東亜戦争」の先にあるビジョンがなかったことが、大きな欠点ではないかと指摘する。

石原莞爾は、戦後、極東軍事裁判を「茶番」と蔑み、自らを連合国側が「戦犯」に問わず、東條英機容疑者の証人として喚問されることにばかばかしさを感じていた。
一説に、マッカーサー元帥が石原の聡明なることを恐れて、戦犯に問わなかったのではないかと言われている。
表向きでは、石原が、今般の戦争に反対の立場であり、東條英機に対して反感を抱いてきたことが戦犯に問わない理由だったと書かれている書物が多い。
実際、石原は当時参謀本部作戦課長であり内国の動乱である二・二六事件の鎮圧に働いた。
皇道派からも石原の扱いに困惑し、埒外に放っておかれた感がある。
天皇陛下でさえ、石原という人物は「わからん」とおっしゃっていたそうだ。
陛下は、石原が満州事変の張本人であることを理解されており、そのことで不穏な人物であるという印象を持たれていたから、二・二六動乱を収拾に向けて働いたことには驚きを隠せなかったのではなかろうか?
実は、石原が二・二六事件を扇動したという証言もあるからややこしい。

廣田弘毅内閣が倒れ(総辞職)、宇垣一成陸軍大将が次期首相に推されるという事態に、石原が積極的に阻止に動いた事件がある。
宇垣は、対米英穏健派、蒋介石にも好意的な立場で、石原にとっても好都合だったはずである。
しかし陸軍の首脳たちは、宇垣が首相になれば軍主導の政治は見込めないとみて、石原もその点では一致しており、彼の「世界最終戦争論」を完遂するためには軍主導の政治は必要不可欠だと考えて、宇垣内閣成立を阻止すべく、石原の根回しで、陸相のポストに誰もつかせないという策を講じた。
陸軍大臣を指名できない宇垣一成首相は組閣を断念し、自ら辞職を陛下に願い出ることになってしまったのである。
このように石原もまた、自分の目的の達成のためには手段を択ばない男であり、満州事変もその例に漏れないだろう。

石原莞爾の「わけのわからなさ」は、のちの評伝や歴史書でも書かれ方が千差万別であり、いまだに謎の多い人物としてとらえられている。
石原莞爾に対してどういう立場で物を書くかでその評価が変わる典型であろう。

石原のしでかした満州事変は、板垣征四郎と田中隆吉、田中の愛人で「男装の麗人」と異名を持つ川島芳子によって第一次上海事変に発展し、日中戦争の泥沼に入っていったとされるが、どこまで本当なのかは、もはやわからない。
田中隆吉にしても東條英機の命令で、石原莞爾に弾圧を加えた経緯があり、それは本意ではなかったと詫び状を石原にしたためている。

私は、石原莞爾という男は、いわゆるサイコパスではなかろうかと思う。
言葉巧みで、説得力のある話術で壮大な夢を語り、人を惹きつけるようなカリスマの持ち主なのだろう。
頭はキレて、冷静沈着で、いたずらに感情的にならない。
軍国主義の世の中にあって、石原は高級軍人であるから、当然に軍主導で政治をおこない、その先に平和がもたらされるという「最終戦争論」も説得力を持った。
民主主義や立憲主義には程遠い考えの持ち主だったと思う。

そこに日蓮宗とアジア主義からくる、アジア人の同胞感覚が石原の思想の基礎を形成していることがせめてもの救いだっただろうか?

石原莞爾のような男が現代にいれば、はなはだ危険な団体を形成して再び日本を危うくするだろう。