塾の佐竹君が夏休みの宿題を持ってきていた。

佐竹忠義君は、中一なんだけど、小学校の時分からこの和多田先生の私塾に来ている。
実は和多田先生の甥にあたるのだそうだ。
和多田先生の妹さんの次男坊で、お母さんが看護師でお忙しいから部活動のない土曜日などにここに来て勉強している。
お兄さんはもう大学生だそうで、近畿大学の法学部に行っているとか。

「なおぼんせんせ、すみませんけど「もとのもくあみ」の「もくあみ」って河竹黙阿弥とは違うんですか?」
「は?」
あたしは子供向けの詰将棋の問題を解いていて、突然訊かれて困惑した。
「いっしょちゃうの?一緒やとしたら、意味不明か…」
あたしは和多田先生の机の上の広辞苑を開いた。
「河竹黙阿弥」の見出し語ではヒットせず、「もとのもくあみ」で引く。
「あ、字が違うね「元の木阿弥」と書くみたい。いやぁ、この歳でも知らんこと多いなぁ」
そこにはこの故事成語の由来が書いてあった。

大和の国に筒井氏という戦国武将がいたんだね。
なかでも筒井順慶(じゅんけい)は「洞ヶ峠を決め込む」という「日和見主義」を揶揄する譬えのご本人だ。
本能寺の変の際、大坂と京都の境の洞ヶ峠に手勢を置き、順慶と親交の深かった明智側につくか、それとも豊臣側につくか逡巡して、結局、秀吉勢が明智光秀の首を取ったのを見届けてから豊臣側についたのだね。

その順慶が幼いころ、父の順昭(じゅんしょう)が病死するの。
順昭は遺言を遺しており、そこには跡継ぎの順慶が幼すぎるので、自分の死を息子の元服まで隠せと書いてあった。
するとね、順昭の替え玉が必要になってくるわね。
だって生きていることにせなあかんから。
順昭は病気で臥せっていると世間には言うておいて、背格好と声だけそっくりの「影武者」が選ばれたの。
それが「木阿弥(もくあみ)」という盲(めしい)の僧侶だった。
家来たちは、この人を床に寝かせて、順慶が元服を迎えるまでの三年間、遺言書通りに芝居を打とうという計画を立てたの。
木阿弥はその替え玉のお役の間、順昭として生きたわけで、三年が過ぎ、無事に順慶が元服して、お役御免となって、晴れて元の木阿弥に戻れたことから「元の木阿弥」の故事が言い伝えられるようになったとか。
史実では順慶は二歳で家督を相続したらしいけど。
よって、歌舞伎作家の河竹黙阿弥とは何の関係もないのでした。
黙阿弥は江戸後期から明治の人で写真も残っています。

佐竹君は、そのことをノートにまとめて帰っていった。