私の旧友で、先輩の門倉さんが、兵庫県姫路市の家島諸島西島に移住した。
家島諸島

奥さんを亡くされて、お子さんも独り立ちしたから身軽になって、趣味の釣りが高じて長年の夢が叶ったと手紙をよこしたのである。
「いえしま」と私たちは呼んでいたが、地元では「えじま」というらしい。
私は太平洋戦争末期の昭和20年三月に遣独作戦で寄こされたU-boatが家島の海軍基地に到着したぐらいしか知らない。
この天然の要塞を旧海軍も利用しないはずがなかったのである。

門倉氏の話では、それはもう、いいところなんだそうだ。
瀬戸内であるから、波は穏やかで、海産物は豊富で、漁獲高が瀬戸内の漁港の中ではいつもトップクラスだという話だった。
もともと、石材の採石場の歴史があり、現在も石材を産出している。
この群島自体が安山岩(西島)と花崗岩(男鹿島)でできているのだった。
織豊時代から石垣の素材として、小豆島に並んで石材産地だったから、人は多く住んでいたようである。
人が住んでいる島は、先輩の住まう西島と、そこからわずかの水路を隔てて隣接する坊勢(ぼうぜ)島、そして少し離れた北東の家島本島、さらに東の男鹿(「たんが」または「だんが」)島の四島であるそうな。
家島諸島と人とのかかわりは古く、文献では「播磨国風土記」に見られ、考古学上は旧石器時代~弥生時代の出土品があるそうだ。
2006年までは「飾磨郡」に所属していたが、今は姫路市に編入されている。

先輩の話で、興味深かったのは坊勢島の人口が増えているということだった。
若者が定着して、結婚し、家を構え、子供が三人、四人は当たり前という、現代日本とは真逆の世界なのだそうだ。
どうやら、島の風習が若者を島に定着させているらしい。
若者はいわゆる「若衆宿」のようなコミュニティに小さい頃から所属し、親兄弟以上に同世代の友人や先輩のつながりが強い関係を築いている。
門倉氏もその実態を把握し切れていないが、例えばもし親に不幸があり、その葬儀での焼香の順番も親類より、若衆の義兄弟が先になるくらいだそうだ。
それだけではなく、あまりの絆の強さから、島から出て行った若者は、都会になじめず、すぐに島に舞い戻ってくるという事情もあるらしい。
島が居心地よく、彼ら、彼女らのゆりかごのように、優しい故郷なのだ。
爺さん婆さんも、彼らが泣く泣く戻ってくると大歓迎で「もう、ここにおれ」と包み込んでくれる。
嫁さんや婿さんの世話も、若衆どうしで面倒を見あうこともあり、友達付き合いから夫婦になるということが自然な家島の風習だった。
それだけでは若者が島に定着する理由としては弱い。
なによりも島民が経済的に豊かであるということだ。
最近は、坊勢島では新築家屋の建設ラッシュだそうで、新聞報道もされるくらいすごいらしい。
若い夫婦に祖父母や両親が家を「建ててやる」らしい。
それも内地よりも資材運搬にコストがかかるので、割高になるというのに、数千万円から一億円もかけて豪邸(?)をプレゼントしてやるのだそうだ。
私は「なんじゃそりゃ?」とたまげてしまった。
収入は、豊富な漁業収入だと言われているが、ほかに採石業の人々もかなり懐が温かいらしい。
私が司法書士試験の受験生だったころ、登記できる不動産の中に「採石権」があり、地権者はかなりの収入を得て第三者に対抗できると聞いた。
まさに働かなくても山を一つ持っているだけで収入が得られるのである。
とにかく外からの移住者もたくさん受け入れているホットスポットなので、もっといろいろな秘密が隠されているらしい。
彼の長文の手紙には、楽園のありさまがつづられていた。

介護の毎日を過ごしながら私は、自由を求めて羽ばたいていった門倉さんをうらやんでいる。
「いつか身軽になったら、押しかけてやろうか」なんてことまで頭に浮かぶ、なおぼんだった。