私は、この人のことをまったく知らなかった。
昨日の「報道ステーション」で「ゴン」こと中山雅史氏が彼の復帰を追って、取材していたのを見て知ったのだ。
アルビレックス新潟で前途洋々だった早川史哉選手は、以前からバテやすく、チームメイトに後れを取ってしまうことを疑問に思っていた。
「自分は、だめな人間なのだろうか?」と自責の念にさいなまれていたという。
しかしそれが急性白血病のせいだということが判明したのだった。
彼は「正直、ホッとした」と振り返る。
その「しんどさ」は、自分が怠け者であるのではなく「病気」のせいだったことで解放された気がしたのだろう。
とはいえ、難治性の死を宣告された病である。
その闘病生活は、明日の見えない、苦しいものだった。
抗がん剤治療は自身の姿を一変させ、病室を出ることもままならないほど、体力は衰えたのである。
トップアスリートだった自分から、すべてを奪った「白血病」だった。
早川選手は、何度、あきらめようとしただろう?
そこに、弱い自分を奮い立たさせてくれた、同じ病を戦う少女がいた。
「早川さん、がんばって」そう言って、手作りの輪ゴムのアクセサリーを手渡されたのである。
早川史哉は目覚めた…
「おれはピッチにもう一度、立つんだ」
彼は、幸いにもドナーを見つけることができた。
骨髄移植の大手術を終え、彼は復帰の一歩を踏み出すことができたのだ。
落ちた筋力はそう簡単には戻らなかったが、つらいリハビリをこなして、彼は一歩ずつ歩き出したのである。
その陰に、あの少女の励ましがあったことは間違いない。
明暗を分けたのは、ドナーの存在だった。
彼女は、ドナーに巡り合えず、息を引き取った。
早川は誓った。
彼女の分も、生きて必ずピッチに舞い戻って見せると。

普通の生活ができる程度に早川選手は体力を戻したものの、サッカー選手としてはどん底だった。
再び、ユースの連中と基本からやり直すことになる。
それでも病み上がりの彼には苦痛だった。
なかなか、落ちた体力は戻らない。
アルビレックスのユニホームは遠くなるばかりだった。
コーチだって「復帰は無理だろう」と半ばあきらめていたという。

早川史哉は耐えた。
ただひたすら、プロサッカーのピッチに立つことだけを思った。
今年のシーズン開幕のキャンプに参加し得たことは、彼にとって大きな一歩だった。
仲間は待っていてくれたのだ。
しかし、なかなか出番は来なかった。
いつもベンチスタートで、ベンチで終わった。
仲間の活躍を見て、自分が歯がゆかった。
「やはり、おれなんか、お呼びではないのか…」
「お情けで、ベンチに座らせてもらっているのか」
卑屈になったことも何度もあったろう。
しかし、腐ってはいけない。
あの子との約束もある。
ファンが待っていてくれているではないか?
彼の目には観客が振る「フミヤ、待ってるぜ」の横断幕が映った。

10月5日、いよいよその時が来た。
鹿児島ユナイテッドFCとのJ2第五節、アルビレックス新潟のホーム、デンカビッグスワンスタジアムのピッチに早川史哉が立った。
彼の復帰を祝う観客席の歓声が彼を奮い立たせた。
90分、フル出場でホームグラウンドを駆け巡った早川。
倒されても、その痛みを感じることがうれしかったと語る。
アスリートの至言だろう。
自在に動く体のありがたさ。
この試合に勝ち、早川の復帰を仲間とファンで祝った。

ああ、なんとすばらしいことだろう。
私は、早川史哉の名前を忘れない。
そして、今日から、アルビレックス新潟を応援します。
(京都サンガとガンバ大阪のファンでもあるんだけど)