男の名前は何て言っただろう?
私の上で、汗だくで腰を振っているこの青年…年のころは三十前くらいか?
出会い系のメールでやり取りして、「諭吉」1枚もらって、ホテルでヤルだけのパタン。

要は、だれでもいいのである。
「あん、いいとこ当たるっ!」
「姐さん、すげえ、締まってる」
「わかるっ?締めてんの」
「ああ、もう、おれだめだぁ」

そうやって、男は体を打ち震わせて私の中に放った。
私の体の芯にぬくもりがひろがる。
それだけで幸せだった。
一万円の幸せ…

私はやさしく彼の背中に腕を回し「よくがんばったね」とばかりに撫でてやる。
しばらく彼は動かなかった。
「重いよ…」「あ、ごめん」
ぬるりと胎内から何かが抜け落ちる感じがした。
同時に、尻の方に温かいものが流れる。
「おっと」
彼がそう言って、ティッシュを取る音がし、紙がその部分に当てられた。

情事の後、私たちはベッドの上で、少しすき間を開けて仰向けになって掛布団を無造作にひっかぶる。
天井の小粋な照明をながめながら、ピロートークを始めた。

「あんた、水素って知ってる?」
「スイソ?」要領を得ない、男のかすれた声が隣でした。
「水素という元素はね、周期表の一番最初を飾っててね、まあ、その名を知らない人はいないんじゃないかな」
「ああ、その水素か。おれも一応、三流だけど大学出てるからね」
「じゃあ、話は早い」
「で、でも文系だから。姐さんは、そういう専門家なのかい?」
「まぁね」「うそだろ?学校のセンセかなにかかい?」
びっくりしたような目で私を見る。
「先生じゃないわ。ただのリケジョ」
「そっか、安心した。で、水素がどうかしたのかい?」
と、彼はまた仰向けになってしまった。
「水素って、どうしたらできるか知ってる?」
「水を分解したら水素ができるって習った」
「よく覚えているわね。ホフマンがおこなった電気分解によって、水は、水素二容、酸素一容の容積比率で分解されるのよね」
「だったかな…」
眠そうな声だった。
「ドルトンが分子の概念を唱え、それがホフマンの実験によって正しいことが裏付けられたのよ」
つまりこういうことだ。
 2H2O→2H2 + O2

「あなたは、水素は気体で、その気体は酸素と燃えて水になるということも知らないかな?」
「水素って燃えるのかい?」
「うん」

ガスクロマトグラフという有機化学の機器分析において、有機物を水素の炎の中で燃やしてイオン化し、そのイオンが電気を運ぶことでブリッジ回路のバランスを崩させて検知するというものがある。
水素炎検出器(FID)を備えたガスクロである。
こういうものは水素を積極的に利用した知恵である。
しかし、門外漢の彼にそんなことを話したら、本気で寝てしまうだろう。

「水素ガスのボンベはね、危険なために赤色に塗らなければならないと法定されててね、ダイヤフラム(ボンベの弁)のネジの方向も逆ねじになっているのよ」
「はぁ…」
※可燃性ガスのボンベのダイヤフラムは逆ねじにすることとなっている。しかしながら、どういう経緯からか燃えるはずのないヘリウムガスボンベのダイヤフラムも逆ねじになっている。

「現在では、水素ガスは石炭や石油などの化石燃料から作られるのよ。オレフィン、つまり二重結合を持つ炭化水素ね、なかでもエチレンやプロピレンをニッケル触媒下で440℃ぐらいで水蒸気と反応させてつくるんだよ」
「ちょっと、何言ってるかわかんない」
サンドウィッチマンの富澤がいうセリフを彼の口から聞いた。

「じゃあさぁ、太陽では水素が核融合してヘリウムになることで熱や光を生み出しているのは知ってる?」
「知らないってば」少し、いらだっているような声だった。私は構わず、続ける。
「太陽の光のスペクトルを調べると水素のスペクトルが得られているのね。それでわかるの。もちろんヘリウムのものも得られているわ」
「はいはい。先生」
あくびを噛み殺しながら、彼が寝がえりをうって背を向けてしまった。
「水素は、だからすべての物質の原点であるともいえるのよ」
「ふーん」
「ニルス・ボーアが考案した水素原子のモデルは、中心に陽子、その周りに電子が円軌道を描いて回っているというものだった」
「ニルスの不思議な旅なら知ってるけど、その人かい?」
「関係ないわ。北欧の人だから、同じような名前はあるんでしょうよ」
「そっか…」
「水素原子の原子核には陽子しかないのよ。つまり中性子を持たないの」
「…」
「アイソトープ(同位体)として中性子一個を原子核に持つ水素を「重水素(デューテリウム)」と呼び、さらに中性子を二つ原子核にもつものを「三重水素(トリチウム)」と呼び、ふつうの陽子だけの原子核を持つ水素は「軽水素」と呼ばれることがあって…」
「グー…」
寝てしまったようだ。

トリチウム以上の水素のアイソトープは人工的に作ることができる。

化学実験や自然界に存在する水素ガスはH2で表される分子である。
つまり水素原子が二つくっついて、二つの電子軌道が一つに融合して結合している(共有結合)。
絶対温度(-273℃)近くまで冷やすと固体になり(融点-259℃)、-25.6℃で沸騰してガスになる。
水素に点火すると、酸素と爆発的に化合して水を生成することは「水素爆鳴気」として知られる。

水素の発見は、1671年のロバート・ボイルの実験にまでさかのぼる。
彼は、鉄に希硝酸を与えて、発生する気体が燃えることに着目したがその正体を見極めることができなかった。
1766年にヘンリー・キャベンディッシュがこの「燃える気体」を単離することに成功する。
1783年アントワープ・ラヴォアジェが「燃える気体」に「水素(hydrogen)」と命名した。
※ラヴォアジェは「水を生むもの」というラテン語から命名した。

つまり、ボイルやキャベンディッシュの実験から、どうやらこの燃える気体は同時に水を生成するらしいことに気づいていてラヴォアジェが「水素」と名付けたのだろう。

水素はふつうは安定な気体であり、そのまま反応する元素はフッ素以外にない。
塩素や酸素とは光の存在や、火の存在があって初めて反応する。

水素イオンは中学生でも知っているだろうが、H+と書く。
しかし、このような状態で存在するはずがないということは少し考えればわかる。
つまりH+ということは、軽水素の原子核そのものであり、言い換えれば陽子そのものだ。
そのような小さなものがそこら中にあれば、大変なことになる。
ビーカーからはガラスを通して漏れだすだろう。
陽子にしてみればガラスなどスカスカの網目だろう。
便宜上簡単にH+と書いているだけで、同時にオキソニウムイオン(H3O+)として習っているはずだが、その真意がここにあることはあまり知られていない。
これは教育者が怠慢なだからだ。

オキソニウムイオンならば、かなり大きいのでガラスビーカーの壁を通過するとは思えない。
そういうことだ。

水素の化合物としてだれでも思いつくのは水(H2O)だろう。
これは国際名(IUPAC)では「オキシダン」と呼ばれるそうだが、だれも使わない。
水は水素化物でもあるし、酸化物でもある。
どちらを中心に考えるかで異なるのだが、いずれにしても水には違いない。

水素化物には、著名なものがたくさんある。
例えば「メタン」という気体がそうだ。
CH4と書けばよくわかる。
国際名では「カルバン」という男性下着ブランドのような名前になる。
塩酸としてよく知られるHCl(塩化水素)も水素化物と言える。

メタンのように、炭素と化合したものは炭化水素といい、石油や石炭に多く含まれ、人類にとって欠くべからざる燃料である。
また有機化学の基礎として炭化水素は存在している。
そして炭化水素にさらに酸素が含まれた炭水化物は、我々生体の必須化合物であり、エネルギー源であることは論を待たない…

「ねぇ、センセ、もういっかいやろうか?」
「いいよ」
いつの間にか、私も寝てしまっていたが、起こされた。
まだ彼のものが残っている「筒」に、ふたたび滑り込んでくるものを感じて私は声を上げてしまった。