この「蜆売り」という落語は上方と江戸でお話の内容が異なるようです。
まず桂福團治の「蜆売り」を聴いてみてください。枕が長いですけれど…
桂福団治の出演時間福團治師匠
上方落語では珍しい「人情噺」になって、お泪頂戴の落語になっています。
もともと江戸落語の演目らしく、それを大坂に舞台を移して話を作り直しています。

上方の「蜆売り」では、蜆売りの貧しい少年と、彼には、告白にだけ出てくる病に臥せる母、そして心労で体を壊した二十三の姉がいるようです。
この姉には将来を誓った男性がいて、その男が事業に失敗して多額の借財をしてしまい、その返済に窮して二人で身を投げようと橋の上の欄干に手をかけたところ、この話に出てくる大店(おおだな)の主人に助けられるんですね。
つまり、この主人が、年末の集金で番頭に持たせていた大金をその男女に返済の足しにせよと与え、名も告げずに去っていきました。
ところが、近所で窃盗事件があり、貧乏な二人が耳を揃えて借財を返済したことに不信感を持った警察が男を逮捕します。
男は牢につながれ、疑いは晴れず、年が明けても帰ってくる見込みはない。
心労の姉はそのまま体を壊して家で、盲目の母親とともに臥せっている…
と、長い少年の話は終わるんです。

これを聞いた番頭が「せめてあの時、だんさんが名前を言うておけば、疑われんですんだものを」と主人に言い、はたと気づいた主人は、昨年の年の瀬に戎橋(えびすばし)の上から身投げしようとしていた若い男女のことを思い出します。
※戎橋とは、道頓堀に架かる、江崎グリコのマークのネオンサインのあるあの橋です。タイガースリーグ優勝のときにファンがダイブした橋ですね。

そして、自分が良かれと思って金を与えたことがアダになったことを知るんです。
話し終えた少年は店を辞して、すでに雪の中を、空の天秤棒を担いで去っていった後でした。
主人は蜆売りの少年を追って雪の中を駆けますが…

ところが、江戸落語では、時代背景が江戸であり、この姉が芸者で、店で知り合った男性とねんごろになるけれど、彼がいかさまの「賭け碁」で大負けし、姉が質に捕られてしまうんです。
それを義賊の「ねずみ小僧」次郎吉が扮する「親分」が聞きつけて哀れに思い、件(くだん)のいかさま博徒から「ちょぼいち」というサイコロバクチで、男がすった金を取り戻してやり、姉の身柄も受け出してくれるのでした。
次郎吉が「宿賃に」と、この姉と男に渡した金が、御金蔵破りで手に入れた小判だったので、宿の主人が怪しんで番所に知らせると、男が冤罪でしょっ引かれてしまうという話になっています。

さて、江戸落語の「蜆売り」の舞台は汐留です。
ある睦月の雪がしんしんと降る、寒い夕方でした。
そこに「ねずみ小僧」次郎吉が町人に身をやつして、屋台で一杯やっている。
「しじみぃ、しじみぃよぉ」と可愛らしくも、うらさびしい男の子の声が聞こえてくるんですね。
厳寒の睦月、蜆を買う客など一人もいません。
見れば、ぼて振りで蜆や浅利を商っているようです。
裸足に藁草履の足元、雪をよけるのかほっかむりをして、ぼろぼろの法被(はっぴ)を着た、年のころは七歳くらいの少年が雪に足を取られながらやってくる。
次郎吉は哀れに思い、蜆売りの少年を呼び止め、その少年から蜆を全部買い取り、挙句に汐留の川に蜆を逃がせと言うのです。
そして次郎吉が、少年がなぜ蜆などを商っているのかの詳細を聞きたいと所望し、話したがらない少年の口から少しずつ聞き出すのでした。

ここの場面は、上方では、蜆売りの少年が寒さに耐えかねて、ある大店(おおだな)の店先から店舗を覗くと、暖かな火鉢に、番頭や男衆(おとこし)たちが尻を温めたり、手をかざしているのが引き戸越しに見えました…となっています。
「あの」
「なんや坊主、さぶい(寒い)、はよ閉めてくれ」
「しじみ、買うとくれやす」
「しじみぃ?そんなもん、いらんわい。今日はえべっさん(十日えびす)や、しじみなんか食うてられるか。おまえ、もしかして、草履でもくすねる(盗む)つもりやないやろな」
「そんなことしまへん。わては、しじみを買うてほしいだけです」
「うるさい、もう、はよ、出て行かんかい。つまみ出すで」
すると奥から騒ぎを聞きつけた主人が、
「こらこら、大の男がよってたかって、子供をいじめるもんやない」
と、番頭たちをたしなめます。
「坊、さぞかしさぶかったやろ。どれ、そのしじみ、買うてやろ」
「だんさん、やめときなはれ」と番頭。
「お前らには食わせへんから、だまっとれ」と主人。
主人は、男の子の蜆をぜんぶ買うと言うのです。
男の子はもう、うれしくって、泣きそうです。
「ほんでな、その蜆はそんなようけ、食べられへんから、元の川に逃がしておあげ」
「へぇ」
あろうことか、お金を払って、主人は蜆をみんな逃がせと言うのです。
「わしのカネで、さしてもらうんやから、好きにさしてもらうで」
と、番頭たちに主人が釘を刺します。
そして主人は「細かいのが、ないんでな」といって蜆代として、1円札を少年に渡します。
※上方落語では時代背景が明治以降のようで、途中警察が出てきますので、お金も小判ではなく札になっているのではないかと思われます。明治時代だったら1円は今の5千円くらいの値打ちでしょうか?

「こんなようけ…おつりがおまへん」
「おつりはいらん。多かったら、残りは取っときなさい」と主人。
番頭が、あまりの大金に、
「だんさん、やめときなはれ。しじみごときに多すぎます」と文句を言いますが、
「やかましい。お前な、この子の手を見てみ、ひびが切れて、血ぃがにじんで、おまけに雪がかぶっとる。こないな苦労して、冷たい川に入って取ってきた蜆じゃ。おまえらに食わせられん。ちぃとは、この子の爪の垢でも煎じて飲めぃ!」と叱責したのです。
蜆を川に逃がし終えた少年は、ふたたび、大店の火鉢のところに戻って来ました。
「みんな逃がしてきました。食べられんで済んだ言うて、しじみもよろこんどりました」
「そうかそうか、面白いことを言う子や。ときにおなかすいてへんか?うちではえべっさんのおりには、色餅をつくるんや。食べて行ってんか」
「うわぁ、きれいなお餅やなぁ」
「どうや、食べてくれるか」
「あの…これお母はんに、食べさせたいんで包んでもらえますか?」
「そうかそうか、あんたのお母さんもきれいやゆうて喜ばはるやろ」
「お母はんは、目を患うて、見えしませんね」
「…そ、そうか、苦労してんねんな。そんな母親の代わりに、おまはんは、しじみを売り歩いてんねんなぁ。感心なこっちゃ。なあ、お前」と、奥方を見て言います。
奥方も、涙目で男の子の話を聞いていました。
「もし、よかったら、坊がなんでしじみ売りをしてるんか聞かしてもらえんかな」
「い、いえ、そういう陰気な話は、堪忍しとくなはれ」
と、少年は固辞します。けれども主人は、聞かずにはいられないという風情。
「そこをどうか、話しておくれな」
番頭も「だんさんに、聞いてもらいなはれ。だんさんに気に入ってもろとくこっちゃ」と少年を促します。
少年は訥々とこれまでの苦労を話し始めました。
その内容は先に書いたとおりです。

上方の「蜆売り」は、なるほど商いの町、大坂らしく、大店の主人が、極貧の蜆売りの少年の身の上話に涙して、餅やお金を渡すという作りになっていますが、江戸では「ねずみ小僧」が親分として、大店主人の代わりを務めます。
そして、少年の姉の話が伏線として語られるのですが、上方では姉と、将来を誓った男が所帯を持つために商売を始めたが、失敗して借金をして首が回らなくなり、戎橋(えびすばし)の上から心中するという話にすり替えられます。
その心中を寸(すん)でのところで助けたのが、大店の主人と番頭だった…
昨年末の話を翌年の十日えびすのころにしているのに、主人はすぐには思い出さないでいるのが、私には不自然に思いました。
※戎橋から身投げしそうになっていることと、翌年の十日えびす(えべっさん)に掛けているのも上方らしいですね。

心中しそうな男女を助け、「これで借金を返しなさい」と集金のカネを渡したのですよ。
それを番頭に指摘されるまで気づかないとは…
一方で、江戸の噺では、ちゃんと少年の姉とその相手の男のことが詳細に語られて、伏線として納得の仕上がりになっています。
「ねずみ小僧」というあまりにも有名な義賊が絡んで、噺の厚みも増します。

その代わり、小さな笑いを取る場面が散りばめられているのが上方落語です。おもしろいです。
福團治さんの噺を聴いてみてください。

上方の「蜆売り」にはとってつけたようなオチがあります。
「あの子にとって甲斐があったんやろか?甲斐(貝)があったから蜆が売れてますねん」というようなオチです。
しかし、江戸のそれにはオチらしいオチはありませんが「めでたしめでたし」で終わっています。
※江戸ではオチのことを「サゲ」と言うようです。

どちらの「蜆売り」がお好きですか?
私は、どちらも好きです。
落語家の味が出る演目だと思います。