時間のことをつらつら考えていると、歳をとるほど過ぎゆく時間が早く感じられるのだ。
朝起きて、何やかやとしていると直(じき)に太陽は天頂にさしかかり、うとうとしているとすでに日は西に沈まんとしている。

そうしてみると「今」という「時(とき)」はいったい、何なのか?
フランスの哲学者、ガストン・バシュラールは「時間とは瞬間の連続だ」と説き、若い頃の私は「なるほどそういうもんか」と気にも留めなかった。
微分法を勉強し、力学などをやっていると、時間を細かく割っていく「瞬間」という概念を持たざるを得ない。
いわゆるΔtとかdtとかっていうやつである。
高速度撮影が発達したこんにち、この瞬間の物理的挙動を私たちは見ることができる。
エルンスト・マッハが最初に弾丸の高速度撮影に成功し、弾丸が音速を超えた際にできる空気の波動「衝撃波」を視覚的に捉えたとされる。

それだけ細かく時間を割ったとしても「今」はすでに移ろい、すぐに「過去」の時間となっていく。
すると、時間の集合には「過去」と「未来」しかなく、「今」が分類される集合がないではないか?
時間を「かたまり」として捉えると「今」は「未来」と「過去」のどちらにも分類できない。
ならば「今」は存在しないのか?
そんなことはないはずだ。
「今」はこの瞬間にも「実在」していなければ、「過去」も「未来」へにも時間は続かないからだ。
これは数学者リヒャルト・デデキントの「数の切断」に通じる。

連続した数直線があって、たとえば「1」でこの数直線を切断したとしよう。
数直線の切断点は事実上「二つ」できてしまう。
減少方向に無限に続く数直線の切断点Aと増加方向に無限に続く数直線の切断点A'である。
問題は、切断した「1」がAにあるのか、A'にあるのかである。
さあ、どっちだ?
これはとても難しい問題だと、私は数学の先生から聞いたことがある。
明確な答えはないのである。
有理数の稠密性ということを踏まえたら、「1」で切断した場合、その「1」はAまたはA'のどちらかにあるとしか言いようがない。
つまり「1」は有理数の端と考えると、もう一方の端は「1以外の1より大きい(または小さい)有理数だというのだ。
AとA'のいずれにも「1」があるとか、どちらにも「1」がないというのは、数学的におかしいのである。
つまり、切断した数直線の端のどちらか一方に、最大元があり最小元がない、もしくは、最小元があるが、最大元がないという結果になるというのが「デデキントの定理」と呼ばれる。

時間に話を戻そう。
「今」は、言うなれば「時間軸」という増加方向へ一直線に進む数直線の一点だとすれば、それは「一時も止まってはいない」のであって、便宜上「止めて切断する」ならば、二つの端のどちらかに「今」が存在する…ということになろうか?

「時間の矢」というアーサー・エディントンという天文学者が唱えた説がある。
時間の「一方向性」のことを「時間の矢」と比喩したものだ。
これこそが「空間」と異にする「時間」の性質だともいえる。
空間はたとえば、三次元空間ならどの方向へも増加させたり、減少させたりすることが可能だ。
ところが時間は、一方向に「過去から未来へ」にしか設定と言うか、概念できない。
言い換えれば「時間の非対称性」である。

私が学生の頃、熱力学の講義でエントロピー変化を学習し、理解するために苦労した結果、時間の増加とエントロピー(乱雑さ)の増加は表裏一体のものだと理解した。
先生は「エントロピーは時間とともに増大する方向にある」と説いた。
宇宙全体を見れば、ビッグバンからこっち、エントロピーは増大し放題だった。
ただ、将来、宇宙は再び収縮に転ずるかもしれないという理論もあるらしい。
また、生物の活動の中ではエントロピーが減少する反応もたくさん見受けられ、生物が代謝し、子孫を残していく過程は熱力学的には「逆回転」の反応なのだった。
人間もまた「積み木を組み上げては、壊す」という熱力学とは矛盾するような営みをずっとやり続けている。
熱力学が否定する「永久機関」も微視的には「永久」に近い運動を営々と続けるものもあるし、宇宙の星々の「生命」は限りあるとはいえ、我々の一生のうちからすれば「永久機関」に等しい。

地球環境は、人間にとっては「永久機関」だとしても、人間の飽くなき欲望の末に、不可逆なくらいに環境が破壊されて、エントロピーが熱力学の教える通りに増大してしまっている。
人間が自然の一部であるという謙虚な生き方をしていれば、自然は「永久機関」として恩恵を与えてくれたのに、それをあだで返しているのだ。

「今」を考えると、さまざまなことが思い起こされ、私は、台所で大根を「切断」しながら、物思いにふけるのである。