私たちは、娘の里美(さとみ)が学校に出かけたのを合図に台所で抱き合った。
「母さん…」
「りひと」
長男の理人は、ドイツに帰ったきり音沙汰のない夫フランツ・リヒテルの面影を強く残していた。
授かった男の子に、私が彼の姓である「リヒテル」あるいは「リヒター」に因んで、役所に「理人」として出生を届けた。
夫には「漢字ではこう書くのよ」と報告したら、彼は、ご機嫌で漢字の息子の名前をためつすがめつ眺めていたものだ。
その夫のフランツが、終戦間際に海軍の潜水艦で故郷のハンブルクに帰ってしまってから、彼には日本に来る前から、向こうに「許嫁(いいなずけ)」がいたことを人づてに知らされた。
私は内縁のまま二人の混血児の母親となってしまっていた。

フランツと出会ったとき、私はまだ十八で、ちょうど里美ぐらいだった…
海軍技術研究所が招へいした電気技師として、まだ二十代後半の青年だったテレフンケン社のフランツが、私の実家の前の屋敷に越してきたのだった。
たしか園部という海軍少将の自宅だったはずだ。

「りひと…」
「うん?」
その黒目がちの、彫りの深い顔立ちは、あの時の夫にそっくりだった。
理人は、わたしを台所の流しの縁に手をつかせて、後ろに回る。
私は着物姿で割烹着をつけていたが、着物の裾をまくられてお尻をあらわにしたのだった。
私は、こうなることを予想して、パンティを履かずにいたから、もう準備は整っている。
理人が、がさごそと自分の下半身をむき出しにしようとしているらしい。
「母さん、今日はサックをつけなくていいだろ?」
「たぶんね、だいじょうぶ」
私は期待に胸を膨らませて、流し台の向かいのガラス窓に視線を合わせた。
「いくぜ、母さん」
同時に、硬いものが私を押し開く。
ぐっ…
すでに喜びでぬれそぼっていた洞穴に、これまた喜びに満ちた息子の日本人離れした砲身がきしみながら侵入してくる。
「ああ、母さん」
「りひとぉ」
ひとしきり、交接に私はむせんだ。
やさしい振動を与えるだけの挿入。
どこで覚えたのやら、ほんとうに息子は、私のツボをわきまえていた。
長さを十分に使った送り出し。
私は立っていられなくなる。
「かあさん、あぶないよ」
「だって、りひとが」
私は息子に甘えていた。フランツにそうしていたように。
差し込んだまま理人が私を抱きかかえてくれる。

フランツとの出会いは、私が女学校からの帰り道だった。
日本語もそこそこ話せた彼は、私にもっと日本語を教えてくれと近づき、代わりにドイツ語を教えてあげると言われ、幼い私は舞い上がってしまっていた。
ドイツ人だが、フランツの瞳は黒かったし、髪もブロンドではなく、栗毛のような色だった。
髭を少したくわえ、ちょうど「チャプリン」に似ていた。
私が女学校を卒業するころにはお腹が目立つようになっていた。
そう、フランツの子を宿してしまっていた。
母にだけ本当のことを打ち明けたが、とうぜん父に知れ、普段おとなしい父が烈火のごとく怒ったのだった。
おりしも満州事変が前の年に始まっており、国内には暗い影が落とされていた。
「いずれアメリカと戦争になるだろう」とフランツがつぶやくことが多くなった。
彼は「石油」が戦争のカギになるだろうと言うのだった。
私たちは親の承諾を得ないまま、墨東(ぼくとう)と呼ばれる付近に所帯を構え、そこで理人を産んだ。
母が、しばらくは、父に内緒で世話を焼いてくれたのには、感激した。
理人の日本人離れした可愛さが近所では噂になるくらいだった。
昭和十二年に、私はふたたび子を宿した。
その子が里美である。
夫のフランツは「マイクロ波」だの「超短波」だの、日本語の本をやたら買って来ては夜遅くまで勉強していたようだ。
八木(秀次)博士の名刺が机の上に載っていたこともあった。
忘れもしない、昭和十六年の十二月八日、日本はフランツの言ったとおりにアメリカと交戦状態になったのだった。
その原因も、彼の予測通り原油の日本への禁輸だった。

戦争が激しくなって、フランツは「電波兵器」とやらの開発で家を空けがちだった。
国民学校生の理人と、まだ幼い里美を抱えての戦時下の生活は苦しかった。
そして夫も、どこか落ち着かない。
どうやらドイツのことが気になるらしい。
彼の国と同盟国になった日本であるが、行き来するには遠すぎた。
伝え聞く欧州の戦局も、いったいドイツが優勢なのか、連合国側が有利なのかさっぱりわからない情報ばかりだった。

昭和十八年だったか、フランツに召喚命令が来たと知らされ、彼に詫びられ、あわただしく旅立っていったのだった。
爾来、夫とは音信不通のままだった。
中学生になった理人との戦後生活は…悲惨だった。
米兵に体を売ったことを理人に知られ、「母さん、やめてくれ。おれが働くから」と泣きつかれた。
たくましい理人に私たち母娘は支えられた。
理人は息子というより、すでに私の夫だった。
そして当然というか…結ばれ、このような関係になってしまった…
理人もまた安らぎを求めていたのだろう。
それが母親であったって、何が悪かろうか?

「ああん、りひと」
私は、息子に貫かれながら、昔に思いを馳せていた。
「母さん…いくっ」
そう言うと、理人が震えだし、私の中に熱いほとばしりを感じた。
私も、腰が砕けるように膝を折った。
四十路の私でも、まだ妊娠の可能性がないとは言えないのに、息子の濃い精液を胎内に受け続けているのだ。
それが生きがいだった。
いずれ娘の里美に知られてしまうかもしれない…その時は、
Wir schaffen es schon irgendwie.(なんとかなるさ)

今、私は、夫に教わったドイツ語によって翻訳家「浦野多江」として生計を立てている。
(おしまい)