アイスランド人でフローキ・ビリガルズソンの名を知らない人はいない。
彼はヴァイキングであり、ノース人の冒険家であった。
「冒険家」というのは、いささか今様(いまよう)に聞こえるが、とにかくこの地を「アイスランド」と名付けたのは彼だと、この国の人は信じて疑わない。

私はダンマーク人であるけれど、アイスランドのこの手の伝説は子供のころから知っている。
家が代々、敬虔なカトリック教徒であったし、ルーン文字の書物を祖父がよく読んでいた。
私が火葬場の仕事をしていたのも父の仕事を受け継いでいたからだ。
弟のハンスは、そんな家業に反発してスウェーデンのウプサラに学問をしに行ってしまった。
もう十年以上もハンスに会わない。
たまさかに母へ手紙をよこすことがあったようだが…今ではその母も、父も亡くなってしまった。

かなり登ってきた。
スナイフェルス(スネッフェルス)山の南峰の尖った山容が目前に迫る。
博士の言ったように日は一度沈んだが、四時間ほどで再び昇ってくる。
レイキャビクに着いた時に気づいていたはずなのだが、実際に荒野で目の当たりにすると不思議な感じだった。
五月も月末になると短い夏がこの島国にも訪れる。
その一番の見ものが「白夜」である。
アイスランドの北側の海をしばらく行くともう北極圏でありその内側(北極側)なら完全白夜で太陽は一日中沈まない。

「ケルドセン君、もう夜の十時だがこの明るさだ」
「おかしくなりますね」
「山頂に着いたら、天幕を張って休もう」
「はい」

遅い夜のとばりが下りてきた。
ほんの数時間の夜である。
私たちは、スナイフェルスの火口を見下ろすテラス状の岩場に天幕を設営した。
博士とたき火を囲みながら、ブランデー入りの紅茶を楽しんでいた。
「すばらしい星空だ」
「ああ、ポラリスがこんなに高く見える」
緯度が高いと、北極星が真上に見えてくるのだ。
「私はね、実は…」
大きく息を吐いて博士が言いよどんだが、続けた。
「地磁気の観測とは表向きの理由でね…この峰の下の火口のあとから地中に降りていこうと思っているのだ」
私は、驚きを隠せなかったが、博士の表情を読むようにうかがった。
「この山の火口は死んではいない」
「…」
「そこを下りていくと、地球の内部に到達するはずだと言われている」
「死んでいないのなら、危険ではないのですか?」
「おそらく、火山性の地震や噴気が絶えているから大丈夫だと踏んでいる」
私はその道の専門ではないので、にわかには信じがたかったが、行って見たいという衝動もあった。
この大地の下にもう一つの世界がある…
それは古代より噂されてきたことだった。
実際に行って帰ってきた者が著した書物もいくつか知られている。
そこは暗黒の世界なのだろうか?
そして灼熱の熔岩が渦巻く地獄なのではないだろうか?
このアイスランドにも明々と燃えさかる熔け出した地面の流れを見ることができる。
あんな中に飛び込んだらひとたまりもない。

私はいつしか寝袋の中で眠りに落ちたようだ。
目が覚めたのは再び太陽が昇って天然のテラスを暖め始めたころだった。
私はゆっくり寝袋から上半身を出し、周りを見渡し博士を探した。
「博士?ミュンヒハウゼン博士!」
呼ばわるが返事がなかった。
私は天幕から出て、昨晩のたき火の跡に駆け寄り、そして火口の方を見下ろした。
人影はない。
鏡のような氷河湖が静まり返っている。
岸辺には名も知らぬ花が群生していた。
天幕に戻ると一通の封書を見つけた。
さっきまで見落としていたようだ。
私は嫌な予感がし、その封書を開いた。
そこにはミュンヒハウゼン博士の字で、こう記されていた。
「ケルドセン君。
君を置いて一人で旅立つことを許してくれ。
私はどうしても、地底への旅に行かなければならない。
しかし、関係のない君まで道連れにすることはできない。
この旅は、再び地上に戻れる保証はない。
私はスナイフェルスのいくつかの火口の一つを選んで下りていく。
君はこのまま来た道を帰ってくれ。
そうして、私のたった一人の姪(リューベックの下記の住所に住まっている)に私のことを伝えてほしい。
そうして、君が良ければ姪のナオーヴェンを妻に迎えてやってほしい」
私は、また岩場の下を見渡した。
どこかにまだ博士がいるはずだと思って目を凝らした。
望遠鏡を使ったが、火口らしき穴は無数にあり、いったいどの穴に博士が入っていたのか見抜くことはできなかった。
頭痛がした。
高山病なのかもしれない。
それとも…
昨日のお茶に眠り薬を盛られていたのかもしれない。
博士はずっと最初からこの計画を実行しようと私を誘ったのだ。
私に天涯孤独になる姪の運命をゆだねて、自分は探検の道を突き進もうとされたのだ。
私はのろのろと天幕を片づけにかかり、博士を追わずに言う通りにしようと決心した。
門外漢の私が博士の後を追っても足手まといになるだけなのだから。
そしてこのことを早くナオーヴェンに知らせなければならない。

私は1885年6月3日、レイキャビクを後にした。
そして北海を貨客船「レパード号」で南下し、ポーツマスで降ろされた。
ポーツマスから別のプロイセン船籍の貨客船「ホルシュタイン号」に乗り換えてリューベックに向かったのである。