静岡県磐田市の見附天神の中に祀られている霊犬がいる。
その名を「悉平太郎」という。
こう書いてしまうと、ネタバレになってしまうが、お許しを。

遠州から信州に伝わる昔ばなしで、信州の方では「早太郎(はやたろう)」と名を変えるようだ。

むかしむかし、ある村に一年に一度、若い娘を一人、人身御供に神社に差し出さねば、田畑を荒らすという荒神がいた。
年頃の娘のいる家は、いまに番が回ってくるだろうと戦々恐々と過ごしていた。
家の軒先に、白羽の矢が立つと、その番が回ってきたことの知らせになる。

娘は経帷子に身を包み、棺桶に生きたまま入れられ、その社の前に置かれるのである。

夜になると、恐ろしい形相の、巨大な妖怪が現れ、棺桶を破り、泣き叫ぶ娘を頭から食いちぎったのだった。
そのむごたらしさといったら、この世のものとは思えない地獄絵巻だった。

このような惨劇が毎年行われ、村は平静を保っていたという。

あるとき、旅の僧が村に訪れた。見附神社の社僧「弁存(べんぞん)」と名乗った。
そろそろ、人身御供を供える時期で、もう、とある農家に白羽の矢が立ってしまい、娘と親子が泣き明かしていた。
僧はその一部始終を娘の父親から聞き、その荒神を退治せねばと立ち上がる。
「ときに、その荒神の弱みとかを、聞いておられぬか?」
「はぁ、なんでも、光前寺のしっぺいたろうには知らせるなと妖怪が言うらしいことが伝わっていますが、しっぺいたろうがどういう人物なのかはまったく覚えがございません」
「ほう。しっぺいたろうとな。とりあえず、わたしがそのしっぺいたろうとやらを連れてまいるから、娘さんをまだ差し出してはいけません」と告げて、弁存は信濃五山の光前寺に向けて旅立った。
難儀して、険しい山を越えて信濃の国に入り、駒ケ根の光前寺をめざす弁存だった。
光前寺周辺で「しっぺいたろう」という人物を探し、聞き込んだが、一向に手掛かりがつかめない。
最後に、光善寺境内で「しっぺいたろう」という犬がいるらしいことを聞き及ぶ。
「そら、寺で飼っている白い犬だな。悉平太郎と書くのじゃ」と僧正が教えてくれ、たいそう勇敢で賢い犬だということだった。
弁存は「しっぺいたろう」が人でないということで落胆を隠せなかった。
「犬ではどうしようもない。たまたま同じ名前の犬がいたというわけか」
しかし、このまま帰るのも気が引けたので、僧正にその犬を見せてもらうことにした。

弁存は目を見張った。
その凛々しく、たくましい白犬が、ただものではないことに気づいた。
「しっぺいたろうは犬だったのだ…」弁存はもう疑わなかった。
「僧正様、どうかこのしっぺいたろうをお貸しください。哀れな娘を助け、妖怪を退治させたいのです」と、弁存が懇願した。
僧正は、笑みを浮かべて「この犬は、普通の犬ではない。必ずやその霊験を見せるであろう。どうぞ連れて行きなさい」と言ってくれたのだった。
「しっぺいたろう」もすべてを察したのか、弁存にまとわりついて、なついた。

弁存は急いだ。しっぺいたろうも、つかず離れず、弁存とともに走った。
「悉く平らげる…か」弁存が走る白犬の姿を見てつぶやき、頼もしく思った。

さて、娘の家では、弁存の帰りを待ちわびていた。
もし「しっぺいたろう」という人物が見つからねば、一両日中にも、村の平和のために娘を差し出さねばならない。
ようやく、弁存が帰ってきた。
しかし一人で帰ってきたことに、娘と両親は落胆した。
「見つからなかったのか」
犬が一頭、弁存の足元にまとわりついている。
弁存は、娘と両親に「この犬がしっぺいたろうです」と告げた。
「こんなちっさい犬になにができましょう」
母親と娘が泣き崩れる。
「まあ、見ていなさい。お父上とお母上は、娘さんを用意された棺に入れてください」
仕方がないという風情で両親は、泣いている娘を棺にうながす。
「信じてください。そうして、村人ともに、社に運びましょう」
泣きはらした母親は、しぶしぶ村人たちにお手伝いを頼みに行った。

神妙な面持ちで、村人たちは棺をかつぎ、行列を成して社に向かった。その後ろに弁存と「しっぺいたろう」が続く。

夕刻、安置された棺を置いて、村人たちは、我先に家に帰ってしまった。娘の両親も、振り返り、振り返り、弁存と白犬、そして娘の入った棺を見送って帰っていった。
弁存と「しっぺいたろう」は茂みに隠れ、時を待つ。

夕やみに乗じて、社の中から、影がうごめいた。
大きく、まっしろな毛におおわれた狒々(ひひ)だった。
荒神(こうじん)とは庚申(こうしん)、つまり猿の怪物だったのだ。
ひぃひぃと洞穴のような大口を開き、棺を鷲掴み、長い爪で引き破るのが見える。
中から娘が色を失ってまろび出る。
そこへ弁存が「しっぺいたろう」をけしかけ、放った。
ワン、ワン、ワン!
驚いたのは荒神のほうだった。
「しっぺいたろう!」
その声を発したが最後、喉笛をしっぺいたろうに噛み切られ、汚い血を雨のように噴かせて、白目を剥いて倒れる。しかし相手は妖怪である、深手を負っても長い爪でしっぺいたろうをつかもうとする。
しっぺいたろうの真っ白な毛皮が裂けて、血しぶきが舞った。
壮絶な闘いが娘と弁存の前に繰り広げられた。
弁存は娘を避難させ、再びしっぺいたろうが血まみれの狒々の頭にかぶりつき、脳天を割ったところでその場を離れた。

娘が戻ってきたことで、両親はたいそう喜び、妖怪が狒々という化け物猿であったこと、しっぺいたろうがとどめを刺したことなどを伝えた。
翌朝、村人とともに、弁存が社の境内に向かうと、壮絶な最期を遂げた狒々と「しっぺいたろう」の骸(むくろ)があった。
人々は、しっぺいたろうを手厚く葬り、その骸は見附天神の境内に弁存の手によって祀られた。弁存は、光善寺をおとずれ、しっぺいたろうの活躍と、悲しい最期を遂げたことを伝えた。僧正は、「そうか、そうか」と目を細めて答え、合掌した。


だいたいこのような話が伝わっている。

「悉平」は「しっぺい」と読むが「疾風」のことではなかろうか?
つまり「早い」わけだ。
だからところによっては「早太郎」と名を変えるのではないか?
「悉く平らげる」は、どうも後付けの意味のように思えるのだ。