おれが石本師の仕事場に帰ってきたのは夕刻の六時前だった。
師は常照寺の阿弥陀如来坐像に没頭している様子で、声をかけるのも憚られた。
「ただいま帰りました」
「おう。遅かったな」
「すみません」
しゅっしゅっと鑿の走る音だけが、やけに大きく響いた。
「飯の支度をします」
師の背中に向かってそういうと、おれは台所に下りた。
冷蔵庫から、ぐじ(甘鯛)の一夜干しを二枚出し、焼くことにした。
昨日のほうれん草の湯がいたものがあったので、しょうゆと砂糖で絡めておひたしにしよう。
みそ汁はたまねぎだった。
めしは、朝のものがおひつにはいったままである。
師は冷ご飯でいいというので、それをだすつもりだった。

たくあんを刻みながら、おれは師がどこまでご存知なのか、いぶかった。
あの面(おもて)をおれに、是枝夫人へ持っていかせたのには特別な意図を感じていた。
「きっとおれが、夫人と怪しい関係になることをわかっていたに違いない」そう思った。
むしろ、夫人と師がグルになってこの遊戯を楽しんでいたのではなかろうか?

うおぉ!
奥から石本師の伸びをする声が聞こえた。
「めしにすっか」
「はい、ただいま用意いたします」
作務衣にたすき掛けでおれは台所から盆に食器を載せて茶の間に上がった。
師が手ぬぐいで顔をふきながら入ってくる。
心なしか柔和な笑顔だ。
ちゃぶ台に皿や椀をならべる。
師が座布団にどっかと座り、
「どうやった?奥さん、やさしゅうしてくれはったやろ?」
と、来た。やっぱり計画的だったのだ。
「ええ、まぁ」
「えらい、しっぽり(長いこと)相手させられて」
「知ってはったんでしょ?」
「あの奥さん、未亡人でな、欲求不満なんや」
「先生もご昵懇だったようで」
「なぁに、最近は、わし、あの人避けてんね」
「それで、おれをあてごうたんですね」
「最初の人として、申し分ないと思ってな」
「いい女性でした。私は一生の思い出にします」
「そう思うてくれたら、ありがたい。さ、めしにしよ」
それからは、二人とも、食事に専念した。
いつも、食事中は会話をしない。
おれは、しかし、すがすがしい気持ちでいっぱいだった。
めしもすすんだ。