この白色の濁流は何だ?
温泉のようだった。
湯気がもうもうと上がっている。
流れが崩している両岸は滑石の層だろうか。
「たぶん、温泉流が分厚い滑石層を溶かして川になっているんだ」
博士はザックを背負いなおしながら、ひげもじゃの口を開いた。
塊のカッテージチーズを切り裂いたようなクレヴァスから奔流がほとばしる。

気温は氷点下一度。
日の出は午前三時二十分だった。
かなり緯度が高い場所まで大陸から北上してきたわけだ。
ざく、ざく、ざく…
二人の足取りがツンドラの霜柱を崩していく。
あたりは乾燥していて、雪は岩陰に少し残る程度だった。
赤茶けた地面が延々と続く。
湯気の川に沿ってしばらく歩くも、だんだん川幅は広くなり、もう対岸には舟を使わないと越せないくらいになってしまった。

スナイフェルス(スネッフェルス)の四つの山頂が朝日に輝いた。
あそこに登るのだ。

ビスケットを行動食にしながら、黙々と荒れ地を歩いていく。
博士はときおり、歌を口ずさむ。
低い声はよく聞き取れないが、高い部分になるとドイツ語の歌詞だとわかった。

私はコペンハーゲンの火葬場の仕事に嫌気がさし、今年の春、フンボルト財団が探検隊有志を募集していたので応募したのだ。
そうしたら、ミュンヒハウゼン博士の地磁気探検隊の人員に空きがあるというので回された。

博士に会うと、
「ケルドセン君、君だけだ、私に同行してくれるのは」
相好を崩してそういうのだった。
誰も博士と北辺の大地に同行する者はいなかったのだ。
「渡りに船」だったのは博士の方だった。

「ここらで休憩しよう」
博士がザックを地面に下ろした。
私は水銀柱を木製の箱から取り出し、気圧を測定しようと垂直に立てる。
フォルタン氏の考案した気圧計は下の革袋に水銀が溜められていて、そこにガラス製の直管が立てられている気圧計である。
風はかなり収まってきた。
サナイェの集落を出た時は地吹雪がひどかったが日が昇るにつれ山からの風は弱まってきた。
博士がコンロを出し湯を沸かし始めた。
水は根雪を使う。
コンパスで方位を確かめ、現在地をハンセンの地図に記入した。
今から半世紀ほど前にこの地を探検家ヤン・ハンセンが踏破し貴重な地図を作成してくれていた。
博士に仰せつかった私の最初の仕事が、国立図書館でのハンセンの地図を模写することだった。
「もうすぐ南中だ。緯度を測ろう」
博士が言うと、私はザックから木箱に入った六分儀を取り出し用意した。
博士は六百スイスフランも出して買った最新式の時計を上着のポケットから取り出す。
お湯が湧きだしたので、お茶をしながら南中を待つ。
「今日は穏やかですね」
「ああ、低気圧が去ったのだろう」
「スナイフェルスの向こうは海なんですよね」
「そうだ、しかし、まだ間に山が二座ほどあるだろう」
ハンセンの地図を広げて博士が見入る。
「ここの気圧は0.92気圧で、高度補正しますと1.02気圧になります」
「うむ」
「博士はご家族は?」
「わたしは、ずっと独り者だよ。旅の生活で家族など持てないね」
「はぁ…」
「ケルドセン君も結婚していないのだったね」
「ええ、二親(ふたおや)を亡くしておりまして、親戚も遠く縁がなかったんです」
お茶をすすりながら答えた。
「どうかな。わたしには姪が一人いる。この探検から帰ったら紹介しよう」
「そんな…」
私は恥ずかしくて下を向いてしまった。
「君は、なかなかよく仕事を手伝ってくれる。信頼できる人物だ。姪を気に入ってくれたらうれしい」
「あ、ありがとうございます」
どんな女性だろうか。
私の心が温かくなっていくような気がした。

私は、六分儀を覗き、南中高度を測定し緯度を算出した。
北緯六十四度五十分とノートに記録する。
一方で、経度の「西経二十三度四十三分」は地図の磁北から出した。
私は、干し肉とビスケットの簡単な食事を終え、「もうすぐ白夜(びゃくや)の季節ですね」と博士と語り合った。
「アイスランドは北極圏より南なので、完全な白夜にはならないんだ」
「そうなんですか」
「まあ、少し日が沈んですぐにまた現れる。もうすぐ沈むから見ていてごらん」
「はい」

スナイフェルスの山頂には「くぼ地」があり、そこには小さな氷河湖が水をたたえているそうだ。
天空を映す鏡のようだと…
その景色はこの世のものとは思えないほど美しいとヤン・ハンセンの日記には書かれてあった。
この山に外輪は、北の最高峰があり、あと東南に双耳峰(そうじほう)、西に独立の尖った頂を持つ。
外輪の内側に、今は火山活動を止めている旧火口が「くぼ地」になっているのだった。
かつて氷河がその「くぼ地」を覆っていたのが、近年の温暖な気候で地面が現れてしまい、そこに氷河湖が残されたのである。

「火口湖ではないんだよ。この湖は」
博士が出発前にレイキャビクの宿で教えてくれた。
「コニーデ(成層火山)の噴火口は南岳の根元にあってね、おそらく一番近い時代の噴火でも五百年も前だろうね」
と説明してくれた。
博士は続けて、
「私は、若い頃スピッツベルゲンの探検隊に参加したことがあった。その時にアイスランドのスナイフェルスも調べる必要があると感じたのだよ」
私にはその意味がわからなかったが、北極圏は寒いが大地は燃え盛っていて、今まさにこの極寒の地は奥深くから噴きあがっているのだと博士は力説した。

「さあ、行こうか」
博士が荷物を背負い、歩き始めようとした。
私も重い機材の入った背負子に腕を通して立ち上がった。