尚子曰く「私にはわからない」
もし作家の気持ちが、手に取るようにわかるのなら、本など読まねばいいのだ。
文字を追ってみても、そこに書かれた事が作家の本心とは限らない。
まるで逆のことを彼は、まことしやかに書くのだろう。
それが作家の生業(なりわい)だからだ。

行く末を案じるあまり、或いは、心の安寧を求めるがあまり、私は書物に逃げる癖がついてしまった。
その閉じた世界に、迷い込んで、ますます殻から出られなくなると言うのに。
人生は詩篇だという人がいた。
もしそうであるならば、アフォリズムで私たちは生きていけるはずだ。
格言だけで将棋が指せるわけではないだろう?

しかし星辰は、確かに私たちの指針になってくれる。
そうやって大海に躍り出た冒険者は数多くいた。
なのに人はいつごろからか、星辰に人生をも託すようになった。
占いなど、星辰の運行に何の関わりもないのにである。
もし関わっているのなら、あなたの人生は、昨日も今日も、明日も同じことの繰り返しだと気づかねばならない。

人は生きてきた時間を問うが、その長短では言い尽くせないものがあることにも気づいているはずだ。
短い人生が何も不幸せを象徴するものでもなかろう。
長きにわたって生きて、艱難辛苦を舐めつくし、まだお迎えが来ないと嘆く老人もいるくらいだ。
幼な子が母の手の中で息を引き取るほど悲しい話もないが。
いずれにせよ、生まれてから死ぬるまでの時間は人それぞれであり、また、ままならぬものでもある。
つまりは、運不運で片付くものだ。

すると明日のことはわからないから、明日できることは明日にしようとか、いやいや、だからこそ今日のうちにやっておこうとか、人は考えるわけだ。
とはいえ、確率的には明日はかならずやってきて、ほぼ今日と同じように過ぎてゆくものだ。
そこに運不運が関わってくるということになるのだろう。
「明日に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という論語の言葉も理解されよう。

私はよく「刹那的」な生きざまを、男女の交合に比定することがある。
「刹那」とは仏教語であり、瞬間のような、ごく短い時間を指す。
「瞬間」とは字のごとく「瞬きするくらいの短い時間」ということだ。
男女の交合における絶頂期はまさに「刹那」なのだと言いたいのだが、それは「疑似死」をも含んだ意味である。
男女はその時、一度、死ぬのである。
それを私は「刹那的」だと言うのである。
それはまた「一期一会」にもつながっている。
男の話によれば、女と交わり、快感の絶頂を迎えて射精すると、自分は死に、しばらくして息を吹き返し、ただならぬ後悔の念に苛まれると言うのだ。
まるで別人になったように。
広く「賢者の時間」と呼ばれるものである。
獣のように女の体を貪り、あげくに汚い精液で乙女を辱めたあと、別人格の賢者が出現するというのだ。
はなはだ、都合のいい話であるが、ご本人はいたって真剣に主張されるのである。
こればかりは、いかなる男性でも防ぎようのない病のようなものだというのだ。
ならば、女にもそういう時間がありはしないのか?
あるのだが、男のそれとはまったく異なり、無我の境地、与えられる幸福、大いなる依存などと例えるにふさわしい心持で、後悔の念などみじんもないのである。
そしてついには潮が引くがごとく、目覚めるのである。

陰陽の理、混沌と秩序、天と地、そういった対立軸が融合するところに、光明が差すと考えればある程度の理解の助けになりはしないか?

子曰く「私にはわからないが、そこに行くことはできる」